関口芭蕉庵
From Wikipedia, the free encyclopedia
伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良勝の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えていた[1]、松尾忠右衛門、のち宗房(むねふさ)[2]、芭蕉は、2歳年上の兄の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入った[1]。
1672年(寛文12年)春、宗房(後の芭蕉)は、自判の三十番発句合わせ『貝おほひ』を携えて
江戸に下った[3]。それから2年後の1774年(延宝2年)、北村季吟から『俳諧埋木』の伝授を受けるために京に上った[3]。帰途、故郷の伊賀に立ち寄り、翌年春、江戸に戻ったようである[3]。芭蕉のこの二度目の江戸に入り後には、1677年(延宝5年)、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に携わった事が知られる。小沢卜尺の紹介によるものと思われるが、労働や技術者などではなく人足の帳簿づけのような仕事だった。これは、点取俳諧に手を出さないため経済的に貧窮していた事や、当局から無職だと眼をつけられる事を嫌ったものと考えられる[4]。
1677年(延宝5年)から1680年(延宝8年)までの4年間、当地付近にあった現場小屋か水番屋に住んだといわれ[3][注釈 1]、後に芭蕉を慕う人たちがここに庵を建てて「竜隠庵」と呼んだのが関口芭蕉庵の始まりであるとされる[3]。後の1726年(享保11年)の芭蕉の33回忌にあたる年に、松尾芭蕉やその弟子らの像などを祀った「芭蕉堂」と呼ばれる建物が敷地に作られた。その後、1750年(寛延3年)に芭蕉の供養のために、芭蕉自筆の短冊を埋めて墓とし「さみだれ塚」と名付けた[3]。また「竜隠庵」はいつしか人々から「関口の芭蕉庵」と呼ばれるようになった[3]。
1926年(大正15年)には東京府(現:東京都)の史跡に指定された。また芭蕉二百八十回忌の際に園内に芭蕉の句碑が建立された。芭蕉庵にある建物は第二次世界大戦による戦災などで幾度となく焼失し、現在の建物は戦後に復元されたものである。現在では講談社・光文社・キングレコードらが中心となって設立された「関口芭蕉庵保存会」によって維持管理されており[7]、池や庭園などもかつての風情を留めた造りとなっている。