新潟県南魚沼郡上田村(現・南魚沼市)生まれ[3][4]。1906年(明治39年)新潟県高田師範学校卒[1]。小学校訓導、同校長、新潟県視学、知事官房主事、岩船郡長、佐渡支庁長、学務兵事課長などを経て、1930年(昭和5年)長岡市助役となる[1][3]。その後、1938年(昭和13年)7月に大阪機械製作所に入社し、同長岡工場で勤務する[1][3]。
1947年(昭和22年)初の高田市長選挙に立候補し、無所属新人と共産党公認の新人2人を破って当選する[1][2][3]。
※当日有権者数:18,887人 最終投票率:73.8%(前回比:-pts)
| 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
| 関威雄 | - | 無所属 | 新 | 8,337票 | 61.2% | - |
| 丸山庄五郎 | - | 無所属 | 新 | 4,173票 | 30.7% | - |
| 北川省一 | - | 日本共産党 | 新 | 1,103票 | 8.1% | - |
同年4月10日に就任した[5]。
1951年(昭和26年)4月22日に一旦退任するが、ほか2人を破って再選し、同月25日に再び就任した[3][5]。
※当日有権者数:-人 最終投票率:93.2%(前回比:
19.4pts)
| 候補者名 | 年齢 | 所属党派 | 新旧別 | 得票数 | 得票率 | 推薦・支持 |
| 関威雄 | - | - | 前 | 8,274票 | 46.5% | - |
| 川瀬勘治 | - | - | - | 6,331票 | 35.6% | - |
| 白石源吉 | - | - | - | 3,178票 | 17.9% | - |
戦後の混乱から復興へ、多くの実績を残した。1947年(昭和22年)10月12日に昭和天皇の戦後巡幸を迎えた際には、市民奉迎場で昭和天皇の先導役を務めた[6]。
1955年(昭和30年)1月20日、胃癌のため在職中のまま死去した[1][5][7]。