関東の連れ小便
From Wikipedia, the free encyclopedia
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原征伐で後北条氏を降伏させた。このとき秀吉は、陣所の高台(笠懸山石垣山城)に家康を伴い、城下を望みながら並んで小便をし、家康に対して関八州の統治を頼んだ。 この逸話は後世の『関八州古戦録』(享保11年〔1726年〕成立)や『新撰太閤記』などに見え、いわゆる「連れション(連れ小便)」の語源としても紹介されることがある [3]。
家康にとってこの申し出は寝耳に水であった。彼自身は後北条氏の滅亡後、隣接する伊豆一国の加増を予想していたとされ、実際に家臣へ伊豆支配の指示を出していた記録もある。しかし秀吉は、家康が5カ国(三河・駿河・遠江・甲斐・信濃)を安定的に支配していることを警戒し、あえて地縁の薄い関東八州への移封を命じたと解釈されている [4]。
7月13日に正式決定が下され、家康は8月に江戸城へ入城した。当時の江戸は湿地が多く「水も草も悪い」と評される未開の地であったが、家康は移封を受け入れ、のちに江戸幕府成立の基盤を築くことになる。
この逸話は後世、慣用句としても転用された。『関八州古戦録』には「今の世までも東国の児女相謂て関東の連小便と申す事は此吉兆を伝へたり」と記されており、関東の人々は一人が小便をすると同行者もならって小便をするという気風に結びつけられた。のちには地域名を入れ替えて各地の気質を表す言葉としても用いられた。