関迪教
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幕府の大久保百人同心でフランス式砲兵伝習に参加[1]。砲兵差図役頭取を務めていた慶應4年(1868年)、幕府の正式決定を待たずに、紀州藩士をフランス式砲兵術の伝習に参加させるべく奔走し、密かに閣老へ働きかけて特別許可を取り付けた中心人物とされる。この行動により、紀州藩の砲兵が仏式砲術を学ぶ道が開かれた[2]。
戊辰戦争では砲兵隊頭として約50名を率い、軍艦長鯨などに乗艦して転戦した。箱館戦争の弁天台場戦では負傷しており、これを戦死と誤記した史料もあるが、実際には生存し、その後も軍歴を重ねている[3]。戦後は大垣藩預となり、赦免されると砲兵頭として紀州藩に招聘され、さらに紀州藩籍となった[4]。
明治政府下では主として砲兵畑を歩み、明治6年(1873年)に陸軍省第三局次長に就任した。また明治7年(1874年)の佐賀の乱では、2月20日付で征討総督幕僚参謀役に任じられ、政府軍として従軍している[5]。明治9年頃に東京砲兵工廠堤理、明治12年には東京砲兵工廠堤理兼砲兵第一方面堤理を歴任した。同年3月22日には砲兵大佐に進み、明治14年には陸軍士官学校学科堤理、明治18年には野砲第3連隊長となるなど、砲兵の教育・生産・部隊運用の各分野で要職を務めた[6]。また、砲兵会議議員なども歴任[7]。明治21年には予備役に編入され、明治28年(1895年)に死去した。
長男は、日本製油株式会社代表取締役を務めた関守造である[8]。
人物
身長は6尺3寸(約191cm)、肋骨状紐飾のついた黒軍服に黒毛皮は襟や袖口を飾ったものを着用し、ナポレオン時代のフランス将軍を思われるような出立ちであったという。しかし戦略戦術面に関してはあまり熟知していなかったとも伝わる。