大刀を用いることを得意とし、その長さは一丈(約3メートル)、両刃の刀身を備え、「陌刃」と呼ばれた。一度振るうごとに数人を討ち取り、正面から敵する者はいなかった。 伏威が長江・淮水の地域を支配するに及び、棱はたびたび戦功を立て、左將軍に任命された。伏威の歩兵はもとより群賊から集めた者たちであったため、多くが放縦であり、互いに侵奪し合うことがあったが、棱がこれを見れば必ず誅殺し、親しい者や旧知の者であっても大目に見ることはなかった。そのため、令行禁止(命令すれば行動し、禁止すれば止まる)が徹底し、道に落ちている物を拾う者はいないほどであった。
その後、伏威に従って入朝し、左領軍將軍に任じられ、さらに越州都督に遷った。輔公祏が僭号(皇帝を名乗る)するに及び、棱は軍に従ってこれを討伐し、陳正通と遭遇した。両軍の陣がまさに接しようとした時、棱は兜鍪を脱ぎ、賊軍に向かって呼びかけた。「お前たちは私を知らぬのか。よくもまあ、挑んで来たものだ!」賊軍の多くは棱のかつての部下であったため、ここに戦意を失い、中には馬を降りて拝礼する者もいた。公祏を破るにあたっては、棱の功績が最も多く、いくぶん自慢げな様子があった。公祏を捕らえると、公祏は棱が自分と謀を通じていたと誣告した。また、杜伏威、王雄誕および棱の家財で賊中にあるものは、すべて恩赦によって元のように返還されるべきであったが、李孝恭はこれを全て没収した。棱が理非を訴えると、孝恭に逆らうところがあり、孝恭は怒り、ついに謀反の罪で棱を誅殺した。