信濃国小県郡泉田村(現長野県上田市)生まれ。明治27年(1894年)旧制第一高等中学校卒業、東京帝国大学電気工学科に進学し、明治31年(1898年)7月に卒業[1]。逓信省鉄道作業局に就職するがすぐに退職し、明治32年から同35年にかけて故郷長野県において松本・諏訪・上田の電灯敷設に従事した[1]。明治36年(1903年)から3年間文部省留学生として欧米に派遣され、スイスのチューリッヒ大学のウェーバー教授主宰の電気研究所で約1年間蓄電池に関する研究を行った。
明治39年(1906年)、イタリア・フランス・イギリス・アメリカと電気事業の視察を行って、5月に帰国した[1]。帰国後は京都帝国大学理工科の臨時講師を務め、明治40年(1907年)新設の仙台高等工業学校教授となり、電気工学科長として創立事務を兼務する。明治44年(1911年)新設の九州帝国大学教授に転じ、電気工学主任として創立事務を兼務。一方、大正12年(1923年)同志と共に福岡市に九州電気工学校の設立を計画し、理事長兼代表者として創立の任に当たったが、大正14年(1925年)九州帝大工学部長に就任のため辞任した。また大正8年(1919年)官命により電気工業視察のため北米・中米を巡遊し、大正12年(1923年)には南満州・華北の電気事業を視察した。
九州帝国大学工学部長を1927年まで務め、さらに1931年に定年退官するまで教授の任にあった。