陳乂
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若くして学問を好み、文章を作るのを得意とした。乱を避けて浮陽県に居候し、のちに開封府に移転した。後梁の将の張漢傑に私邸に招かれ、その推薦により太子舎人に任じられた。同光元年(923年)、後唐の荘宗が後梁を滅ぼし、郭崇韜が鎮州を遥領すると、陳乂は郭崇韜の賓客として招かれた。同光3年(925年)、郭崇韜が魏王李継岌に従って前蜀を討つと、陳乂は招討判官をつとめた[1]。
同光4年(926年)、郭崇韜が死去し、明宗が即位すると、陳乂は任圜の推薦により入朝し、膳部員外郎・知制誥に任じられた[1]。応順元年(934年)、給事中となり、枢密院学士をつとめた[2]。のちに中書舎人に累進した。陳乂は自らの才能を頼んでいたが、陰気な性格のため、他人と気の合うことが少なく、枢要の地位に昇進できなかった[1]。後晋の天福2年(937年)、左散騎常侍に転じた[3]。怒りのため病床に伏し、翌月に死去した[1]。礼部尚書の位を追贈された[4]。