陳承昭は、最初南唐の武将であり、保義軍節度使に任じられた。保大13年(955年)、後周の世宗柴栄が親征して南唐を攻撃(淮南の戦い)すると、自身は濠泗楚海四州水陸都応援使に任じられ、主将として後周軍に相対し、善戦した。保大15年(957年)、後周軍に大敗して武将の趙匡胤の捕虜となり、その後、柴栄のもとに引き渡された。結果として潔く後周に投降し、後周の武将となり、右監門衛上将軍に任じられ、やがて右領軍衛上将軍に転じた。
柴栄の死後、趙匡胤が即位して宋が建国されると、引き続き宋に仕え、右神武軍統軍・右龍武軍統軍といった要職を歴任した。水利事務に精通していたこともあり、趙匡胤から重用され、主に治水や水軍調練・監督の任務を担った。
開宝2年(969年)、趙匡胤が親征して北漢を攻撃した際、自身も老齢をおして参陣し、趙匡胤に対して太原府の水攻めを献策。自ら水攻めを主導したが、惜しくも失敗に終わった。
その年に死去した。享年は74。死後、太子太師を追贈された。