陳玄
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代々医者をつとめた家柄に生まれた。はじめ河中節度使の王重栄に仕えた。乾寧2年(895年)、河東節度使の李克用が太原府から軍を率いて王行瑜を攻撃するにあたって、河中府に進出すると、陳玄は薬湯をもって近侍し、李克用に重んじられた。李克用が太原府に帰ると、陳玄はその側近に侍った。李克用は気性が荒々しく横暴で、殺人を楽しみ、あえて諫める者もなかった。陳玄は李克用が激怒するたびに、その感情を推しはかって、落ち着いて諫めたので、禍を免れた者も少なくなく、かれに物を贈ろうとする勲貴が門戸にあふれた。陳玄は酒を好んで施しを楽しみ、私的な財産を積むことはなかった。後唐の明宗のとき、太原少尹となり、入朝して太府寺卿となった。長興年間、平生の薬の処方75首を集め、あわせて薬の調合法100件を編纂して、『要術』といった。石に刻んで太原府の衙門の左に置き、人々に公開したので、病人がこれを頼りにした[1]。後晋の天福6年(941年)、老衰のため引退を願い出て、光禄寺卿として致仕した[2]。開運2年12月17日(946年1月22日)[3]、太原府で死去した。享年は八十数歳[1]。