Wikiwand AI

陶山鈍翁

From Wikipedia, the free encyclopedia

陶山 鈍翁(すやま どんおう、1658年1月1日(明暦3年11月28日[1]) - 1732年8月14日(享保17年6月24日[2]))は、江戸時代中期の儒者、農政家[3]。諱は存(ながろう)、字は士道、通称は庄右衛門、別号は訥庵(とつあん)[2]。

生誕 陶山 五一郎以直
(1658-01-01) 1658年1月1日
日本の旗 日本・対馬藩対馬府中金石
死没 (1732-08-14) 1732年8月14日(74歳没)
日本の旗 日本・対馬府中
職業 儒者
著名な実績 対馬における猪の駆除
概要 すやま どんおう 陶山 鈍翁, 生誕 ...
すやま どんおう
陶山 鈍翁
生誕 陶山 五一郎以直
(1658-01-01) 1658年1月1日
日本の旗 日本・対馬藩対馬府中金石
死没 (1732-08-14) 1732年8月14日(74歳没)
日本の旗 日本・対馬府中
職業 儒者
著名な実績 対馬における猪の駆除
テンプレートを表示
閉じる

賀島兵介や雨森芳洲と共に対馬三聖人の一人に数えられる[4]。

生涯

少年期

明暦3年11月28日、対馬藩の儒医陶山玄育の第一子として対馬府中金石に誕生[1]。幼名は五一郎以直[1]。

11歳で江戸に向かい、木下順庵の門下生となる[1][2]。鈍翁は多くいた木下順庵の門下生の中でも注目を浴びたが[1]、16歳の時に江戸を離れ、大和国で陽明学を学んだ[1][2]。

猪鹿追詰 

大和国で陽明学を学んだ鈍翁は対馬に帰郷し、18歳で対馬藩士となる[3]。そして、24歳で陶山家の家督を相続し[1]、100石の領地を得る[2]。のちに対馬藩と久留米藩の領土争いを解決したことから50石の加増をされる[2]。

1699年(元禄12年)、対馬藩郡奉行に就任し[2]、就任以前から問題視していた猪による農作物被害をなくすべく、平田喬信と共に猪狩りに着手した[1]。このように、鈍翁は農業政策に力を注いでいたと伝わる[3]。

1700年(元禄13年)、猪を駆除(猪鹿追詰[5]・猪鹿追詰覚書[6])を開始する[2]。猪鹿追詰が開始された当時、世間では生類憐れみの令が発令されており、行動次第では鈍翁のみならず対馬藩まで潰される可能性があったが、鈍翁はこれを「あくまで猪を追い詰めるだけだ」と説明し、乗り切ったと伝わる[7]。

鈍翁は20歳以上の男子に勢子としてこの討伐への参加を命じ、猪を絶滅させるために、対馬全島を9つの区域に分け、北から1区ずつ絶滅させていくという方法をとった[3][8]。猪が草むらなどに姿を隠した場合には火を放つなど、猪の徹底的な駆除を命じた[8]。

また、鈍翁や喬信、米田惣兵衛は鉄砲を導入するために鍛冶屋を堺へ送り、鉄砲の技術を対馬に持ち帰らせた[9]。

1705年(宝永2年)、対馬府中で鉄砲の製造がついに開始され[10]、それに伴い鉄砲を扱う訓練が行われるようになった[11]。

1708年(宝永5年)に群奉行を辞任し、隠棲[2]。翌1709年(宝永6年)、8万頭いたともいわれる猪の駆除・絶滅に成功した[1][8]。猪の駆除に動員された民は23万人(延べ30万人[3])にもの上るといわれている[1]。

晩年

群奉行の辞任後は執筆活動に精を出し、世を去るまで農業に関する書物を書き続けた[1]。

享保17年6月24日、病気のため死去[2]。享年74(76とも[1])。遺体は対馬府中に埋葬された[2]。

人物

  • 猪鹿追詰を実行した当時、世では生類憐みの令が発令されていたため、度々非難されることもあったが、それでも決死の覚悟で説得をして回ったと伝えられている[1]。
  • 飢饉が発生した際、サツマイモを栽培して人々を救ったとされる[12]。
  • 神聖な場所で猪狩りを行う際には、安全祈願の目的で神事を行ってから狩りに着手するようにした[8]。
  • 1732年(享保17年)、猪鹿追詰に感謝した佐護の領民によって、曠古遺愛の碑(こうこひあいのひ)が建立された[8]。
  • 1924年(大正13年)、正五位を追贈された[13]。

主な著書

  • 『春秋大義』12巻
  • 『老農類語』3巻
  • 『通鑑綱目大義』32巻
  • 『艮止説』2巻
  • 『財用問答』2巻
  • 『水利問答』
  • 『訥庵雜録』6巻

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks