清末に湖広総督・張之洞の手配で日本へ軍事留学する。成城学校を経て陸軍士官学校第20期(留学生第4期)歩兵科を卒業した。なお、後年に湖北省や武漢市で同僚・政敵となる何佩瑢や石星川は、同郷の同期生である。帰国後、雷は歩兵科挙人を授与され、広西陸軍小学堂監督に就任した[2][3]。
辛亥革命に際しては、湖北・湖南・広西の連合軍統領になったとされる[2]。中華民国が成立すると、1912年(民国元年)、北京政府参謀部第二局局長に任命され、同年末に陸軍少将位を授与された。1914年(民国3年)、陸軍中将銜を加えられ[5]、翌1915年(民国4年)10月18日、参謀本部第一局局長に改任された[6]。1922年(民国11年)、参謀本部第二局局長に復任し[1][注 1]、1923年(民国12年)、正式に陸軍中将位を授与された[5]。1926年(民国15年)6月4日から7月22日まで参謀本部次長代理をつとめている[7]。北京政府の樹立から崩壊に至るまで、雷寿栄は一貫して参謀本部で任用された[3][注 2]。
蔣介石国民政府での雷寿栄は、1930年(民国19年)に第3編遣区弁事処委員に任命されたことを除き冷遇されていた[5]。しかし満洲事変後になると、何応欽によって雷は新たに起用され、梅津・何応欽協定締結に際して中国側顧問をつとめた[8]。その後、冀察政務委員会外交委員会委員や華字新聞『中和報』社長などとなっている。盧溝橋事件勃発後は、北平治安維持会顧問や京津治安維持会連合会秘書長となり、華北の親日政権樹立のため活動した[2]。
王克敏が中華民国臨時政府を樹立すると、雷寿栄もこれに直ちに参加した。1938年(民国27年)1月1日、振済部(総長:王揖唐)で衛生局局長に任命されたが[9][10][注 3]、同年末をもって退任している[11]。なお、雷の過去の経歴から判断すれば、臨時政府での官職は冷遇に等しいと言い得る。
その後、雷寿栄は武漢方面に転じ、日本軍に協力している。1939年(民国28年)4月20日に武漢特別市政府(市長:張仁蠡)が成立すると、雷は同市政府参議に任命された[12]。また、民衆動員団体である武漢青年協会の総裁や武官養成機関である保安訓練院の院長も兼任している[13]。以後、日本占領化の湖北省と武漢市では、雷寿栄・張仁蠡に加え、武漢市参議府の正副議長である何佩瑢・石星川の4人の間で権力闘争が展開されることになる。
同年11月、湖北省政府が新たに成立し、武漢特別市参議府議長の何佩瑢が省長に就任すると、参議府自体も湖北省政府に付随することとなり、石星川が参議府議長、雷寿栄が同副議長に就任した。雷は日本語が得意で、かつ、日本軍特務とのコネクションもあった。まず、文官養成機関の政務訓練院(院長:石星川)と保安訓練院が存在していたが、両者は合併して武漢訓練院となり、雷が院長に任命される。更に、司法機関や税務機関への影響力も拡大するなど、無力な石を凌ぐ権勢を備えるようになったという[14]。
1940年(民国29年)5月、汪兆銘政権内での割拠を図る何佩瑢は、湖北人による湖北統治(「鄂人治鄂」)を目指す地方政党として、共和党を創立しようとした。この動きで何は、漢口特務機関長・柴山兼四郎の支援も受けている。共和党創立に際し、石星川と雷寿栄は党副総裁就任を何佩瑢から打診されていたが、雷は実権のある党幹事長職との兼任を柴山や何に要求している。ところが過大な要求に柴山と何は激怒し、雷は共和党執行部から弾き出されてしまった。こうして雷は、あっけなく政界実力者の地位を失ったのである[15]。
その後の雷寿栄は、湖北省政府委員[16]や華北合作事業総会常務理事[17]などを歴任した。没年は不明だが、程華によれば、雷は鬱々としたまま北京で病没したとしており[18]、1945年8月以前に死去したと見られる。