青杉城
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石見国邑智郡佐波荘の国人領主であった佐波氏の居城。約250年の長きにわたって佐波氏の居城となった。
構造
沿革
鎌倉時代末期に地頭に任じられた三善顕連は、地名より「佐波顕連」と氏を改めた。元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が挙兵すると、顕連は後醍醐天皇側に味方した。建武の新政後足利尊氏の反乱によって南北朝時代に突入、混迷の時代を迎えると、顕連は防衛力の強化に迫られて青杉城を築城した。
しかし、南朝:正平5年/北朝:観応元年(1350年)に、北朝側の名将高師泰が城を攻撃し、約1ヶ月の攻防戦の後に青杉城は落城。佐波顕連は自害したとも、討死したとも言われている。なお、この時に佐波氏の再起を期した家臣によって埋蔵金が埋められたという伝承が残る[2]。
その子、佐波実連は北朝に帰順して、佐波氏の存続に成功する。
佐波氏は戦国時代は尼子氏に従うも、尼子氏が滅亡すると毛利氏に従属する。安土桃山時代末期に佐波氏は備後国東城の五品嶽城を領したため、青杉城は廃城になったとも、吉川氏の属城になったとも言われ、佐波氏の居城としての役目を終えた。
