韋虚心
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経歴
太子左庶子の韋維(韋知人の子で、韋湊の叔祖父の韋叔謙の孫)の子として生まれた。孝廉に挙げられ、官にあっては厳粛に秩序立っていた。累進して大理寺丞・侍御史となった。神龍年間、疑獄の取り調べにあたって、僕射の竇懐貞や侍中の劉幽求は寛容に取り扱おうとしたが、虚心は法令を厳守して、高官の意向に左右されなかった。景龍年間、西域の羌族が反乱を起こすと、捕らえられた反乱者全員を処刑せよとの勅命が下ったが、虚心はその罪を元首だけにとどめるよう上奏して、1000人あまりの命を全うさせた。父が死去すると、虚心は辞職して喪に服し、哀毀すること礼の規定を超えていて、そのひげが全て白くなった。のちに虚心は御史中丞・尚書左丞・尚書右丞・兵部侍郎・荊州都督府長史・揚州都督府長史・潞州都督府長史兼採訪使を歴任した。戸部尚書・東都留守をつとめた[4][1]。開元29年(741年)4月丙辰、死去した[5]。享年は67[4]。揚州大都督の位を追贈された。諡は正といった[1]。