相良氏を軍門に降した島津氏は、さらに肥後中央部への進出を図り、その途中に立ち塞がる御船城の甲斐宗運を破るため、相良義陽に先陣を命じた。阿蘇攻めの先陣を命じられた義陽は同年12月1日の早暁、兵800を率いて古麓城を出陣し、その途次の白木妙見社で戦勝祈願を行う。義陽は八代から阿蘇領との境にある姿婆神(鯖神)峠を越え、軍勢を割いて阿蘇方の堅志田城と甲佐城に向かわせ、義陽自身は響野原(響ヶ原)に本陣を布く。
甲斐宗運は相良氏の出陣を始めは信じなかったが事実を確認すると2日未明に本田・下山・林田・上栗原・志戸・井芹・緒方・鳥井・椎原・杉田・保田・村山・玉渕らからなる兵500を率いて出陣した。