飯野吉三郎
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岩村藩士・飯野益衛の三男として生まれる。益衛は100石取りの家臣で、御側御用人などの要職を務めた家系であった[3]。しかし、廃藩置県により家職を失い、父も病没し、二人の兄は故郷の岩村に留まって教育者となった。一方、吉三郎は1885年に上京して夜学で学んだ[3]。1886年、築地明石町の私立鈴木小学校の教員となり、算術と英語を教えた[3]。しかし、1年余りで教師を辞めると、飛騨山中での行者修行や易学習得を経て、麹町平河町に居住する[3]。
呪術を学んで新宗教を興して行者となった。元々大柄で独特の音声を発することから話術に妙な説得力があり、人を威圧するのに充分であった。やがて、同郷の有名人であった下田歌子を頼り、その紹介で皇室や政界に食い込むようになる。
1904年(明治37年)「皇軍勝利の道を開け」との神託を受け、児玉源太郎と面会する[3]。吉三郎の神託は的中し続け、日本海海戦の攻撃方法なども助言した[3]。児玉は、吉三郎を伊藤博文や山県有朋らと引き合わせた[3]。その後、後藤新平・鈴木喜三郎・石塚英蔵・津村重舎・孫文らと面識を持つ[3]。金原明善と組んで満州へ投資し、これも当たったことから莫大な財産を得る。後に、東京穏田にあった外松孫太郎の邸宅を買い取り、外松の三女を妻とした[3]。その住居から、「穏田の神様」「穏田の怪行者」ともいわれた。吉三郎は故郷の岩村の八幡神社に、東郷平八郎元帥の神号額と神尾光臣将軍の額を献納した。
下田歌子の推挙を得て、1920年、貞明皇后から摂政皇太子(後の昭和天皇)の洋行についての神託を依頼される[3]。しかし、1925年(大正14年)に白木屋事件、旭事件などの詐欺事件に荷担していたことが曝露され、報知新聞や東京朝日新聞から糾弾される[3]。1925年3月11日、東京地検は飯野を起訴した[4]。証拠不十分で不起訴となったものの[要出典]、以前から乱行が噂されて世間から見放されていたことも加わり、一気に有力者が離れた[3]。不遇な晩年を送り、1944年に78歳で亡くなった。