飯高永雄
From Wikipedia, the free encyclopedia
承和3年(836年)一族の全雄・弟高らと共に、宿禰姓から朝臣姓に改姓する。承和14年(847年)の時子内親王(仁明天皇皇女)[1]、嘉祥2年(849年)百済王慶明(尚侍)[2]、嘉祥3年(850年)秀子内親王(嵯峨天皇皇女)と[3]、仁明朝末にかけて後宮の女性が薨去した際に葬儀の監護を務める。また、嘉祥3年(850年)5月の仁明天皇崩御後の修六七日御斎会では東大寺使を務めた[4]。
文徳朝に入り、仁寿2年(852年)播磨権介として地方官に遷任する。斉衡元年(854年)刑部少輔に任ぜられて京官に復すと、中務少輔・主税頭・大蔵少輔と文徳朝中盤は京官を歴任する。
文徳朝末の天安2年(858年)尾張守として再び地方官に転じると、清和朝でも越後守・丹波守と地方官を歴任した。またこの間、貞観5年(863年)には従五位上に昇叙されている。