長野県下伊那郡飯田町(現・飯田市)生まれ。1911年(明治44年)に長野県飯田中学校を卒業し、一家で東京の深川に移り住んだ。1912年(明治45年)には竹久夢二と出会い、そのつてで恩地孝四郎(小鳥より1年早い1891年生)や田中恭吉(小鳥と同じ1892年生)と出会った。同年4月には東京美術学校予備科に入学し、本科の彫刻科塑像部を志望するが、選抜に落第して7月には東京美術学校を退学し、木版彫師の伊上凡骨の下で木版画の勉強に励んだ。1913年(大正2年)6月、肺結核によって死去[1]。21歳没。没後3年目に『月映』で遺作が紹介され、1919年(大正8年)には第1回日本創作版画協会展に同作品が出展された[2]。