馬郁
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経歴
若くして優秀な才能と計略があり、弁論はよどみなく、筆を下せば文章を作ることができた。唐末に盧龍軍の刀筆吏となった。景福2年(893年)、盧龍軍節度使の李匡威が成徳軍節度使の王鎔に殺害されると、王鎔はその弟の李匡籌に手紙で知らせた。李匡籌は王鎔に経緯を問いただすべく、幕客に手紙を書かせようとしたが、いずれも意にかなわなかった。馬郁はちょうど記室をつとめていたので、手紙を起草すると、疑うべき点10か条を列挙して、その文章は華麗だった。あるとき馬郁は王鎔への使節として鎮州に赴くと、宴席で幕客の張沢が歌舞を得意とする官妓の身柄を賭けて賦を作るよう求めてきたため、馬郁は即座に筆を取って賦を書き上げ、妓を連れて帰った[1]。
馬郁は河東節度使の李克用の幕下に移り、検校司空・秘書監に累進した。李克用と晋王李存勗に厚遇された。監軍の張承業が幕僚を集めて宴会を開くたびに珍しい果物を陳列していたが、馬郁は必ずこれを食い尽くしていた。張承業は一計を案じて、乾燥したハスの実を置かせた。馬郁は靴の中から鉄杖を出し、実を砕いて食った。張承業は大笑いした[2]。