馮涵清 From Wikipedia, the free encyclopedia 出生: 1892年(清光緒18年)死去: 不詳出身地: 清盛京将軍管轄区奉天府蓋平県繁体字: 馮涵清馮涵清 『大満洲国要人画報』(1934年)プロフィール出生: 1892年(清光緒18年)死去: 不詳出身地: 清盛京将軍管轄区奉天府蓋平県各種表記繁体字: 馮涵清簡体字: 冯涵清拼音: Féng Hánqīngラテン字: Feng Han-ch'ing和名表記: ふう かんせい発音転記: フォン ハンチンテンプレートを表示 馮 涵清(ふう かんせい)は、中華民国、満州国の政治家。字は汁青。 『満洲建国十年史』(1942年) 最初は華北各省の地方法院で役職に就いた。後に北京政府陸軍総執法処秘書長、同処長を歴任する。次いで京奉鉄路局に転任し、総務処処長、同局長をつとめた。さらに、交通総司令部執法処処長にも任命されている。 1931年(民国20年)に満州事変(九・一八事変)が発生すると、馮涵清は関東軍の支持により、奉天省実業庁庁長に任命された。翌1932年(大同元年)3月9日、満州国が正式に成立し、翌10日、馮は満州国国務院の司法部総長に起用された[1]。1934年(康徳元年)の満洲帝国成立とともに司法部が改組されたが、引き続き司法部大臣として留任している。 1937年(康徳4年)5月7日、馮涵清は司法大臣から退任[2]。同月中に満州重工業開発株式会社副総裁となり、また満州国協和会中央委員も委嘱された[3]。1942年(康徳9年)11月、東亜経済懇談会(会長:小倉正恒)満州本部長として来日した[4]。 満州国崩壊直後の1945年8月下旬、満洲重工業開発総裁・高碕達之助に馮涵清は同社副総裁として随従し[5]、ソ連のザバイカル戦線副司令官である大将ミハイル・コワリョフと会談した[6]。最終的な馮の行方は不詳である。 帝国弁護士会は上野精養軒で司法部総長歓迎会を開催した。馮から左へ枢密院原嘉道、大審院牧野菊之助。 注 ↑ 「満州政府の閣員 昨日正式に発表」『東京朝日新聞』昭和7年(1932年)3月11日。 ↑ 「満州国内閣改造きょう発表、六大官勇退」『東京朝日新聞』1937年5月8日夕刊。 ↑ 「建国の柱石 来朝諸氏来歴」『朝日新聞』1942年3月15日夕刊。なお、満蒙資料協会編(1943)、928頁は、満洲重工業開発副総裁に就任したのは、康徳4年12月のこととし、また、新京統制経済協力会会長にも就任したとしている ↑ 「東亜経済懇談会 きょうから開催」『朝日新聞』1942年11月26日。 ↑ 副総裁の地位には、7 年以上在任していたことになる。 ↑ 高碕、203頁。 参考文献 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第4版』満蒙資料協会、1943年。 高碕達之助『満洲の終焉』実業之日本社、1953年。 満州国 先代(創設) 司法総長1932年3月 - 1934年2月 次代(司法大臣に改組) 先代(司法総長から改組) 司法大臣1934年3月 - 1937年7月 次代張煥相 この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。表示編集 この項目は、政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。表示編集 Related Articles