騎士パズマン
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制作の経緯
1881年冬、リング劇場で大火災が発生し、約400名もの犠牲者が出た[2]。当時ウィーンではオペレッタの人気が低迷しつつあり、「ウィーンの劇場史上最悪の惨事[2]」といわれたこの事故がさらにオペレッタ不振に拍車をかけた。安全性を確保できないオペレッタから離れていった市民が代わりに目を向けたのは、上流階級のための娯楽であるオペラであった[3]。
しかし、当時一世を風靡していたグランド・オペラは「重厚長大」さを売り物にしたオペラで、上演時間はむやみに長く、オーケストラや合唱はひたすら重々しい響きを奏でていた[4]。それまで軽快なオペレッタに親しんでいた大多数の市民にとって、これは非常に退屈なものであった。中には、客席に姿を見せた社交界の有名人を眺めるなどして過ごし、舞台を見ようともしない観客すらいた[3]。この傾向を受けて、オペラ劇場の幹部はとうとうヨハン・シュトラウス2世に作曲依頼をするに至った[4]。
シュトラウスは、オペレッタよりも作曲に慎重を期し、3年にもわたる作曲推敲期間をかけてこの仕事に取り組んだ[5]。こうして完成したのがオペラ『騎士パズマン』である。このオペラは、1892年1月1日にウィーン宮廷歌劇場で初演されることとなった。
物語
評価
シュトラウスの音楽は好評を博したが、肝心な台本がありきたりすぎて、あまりに拙劣なものだった。王が家臣の妻の額に接吻し、家臣が王妃の額に接吻して一矢報いようとする騒動が延々と続くだけのこのオペラが成功するはずがなかった[5]。2月5日の第7回公演をもって、ウィーン宮廷歌劇場での上演は打ち切りとなる[6]。それによって、シュトラウスは多額の借財を抱えることになり、その後は同オペラのプラハ上演に向けて奔走することになる[6]。しかし、プラハでもやはり成功せず、3年にもわたって作曲されたこのオペラは、わずか9回上演されただけでお蔵入りとなってしまった[1]。
批評家エドゥアルト・ハンスリックは、オペラそのものへの言及はほとんどなしに、「第3幕のバレエは、スコアのなかでひときわ輝く至宝であり、こんにちでは彼が最も効果的なバレエを書くことができる唯一の作曲家である」と述べ、劇中のバレエ音楽を賞賛している[7]。なお、ハンスリックのこの批評にシュトラウスは激怒し、翌2月のコンコルディア舞踏会にてポルカ・マズルカ『公平な批評』作品442を発表し、ハンスリックへの強烈な抗議を行った[7]。この時点のシュトラウスはバレエ音楽に嫌悪感を抱いており、その作曲に手を染めるつもりは毛頭なかったのである[7]。
騎士パズマンのチャールダーシュ 作品441
オペラそのものは失敗だったが、第3幕で演奏されるチャールダーシュ(ハンガリーの舞曲の一種、チャルダッシュとも)は傑作と評価され、『騎士パズマンのチャールダーシュ』としてオペラと同様に「441」の作品番号が付されている。
ウィーンフィル・ニューイヤーコンサートに登場した際の情報は、以下の一覧を参照。
| 開催年 | 指揮者 | 備考 |
|---|---|---|
| 1939年 | クレメンス・クラウス | |
| 1942年 | クレメンス・クラウス | |
| 1944年 | クレメンス・クラウス | |
| 1949年 | クレメンス・クラウス | |
| 1953年 | クレメンス・クラウス | |
| 1956年 | ヴィリー・ボスコフスキー | |
| 1960年 | ヴィリー・ボスコフスキー | |
| 1967年 | ヴィリー・ボスコフスキー | |
| 1971年 | ヴィリー・ボスコフスキー | |
| 1975年 | ヴィリー・ボスコフスキー | |
| 1984年 | ロリン・マゼール | |
| 1989年 | カルロス・クライバー | |
| 2000年 | リッカルド・ムーティ | |
| 2011年 | フランツ・ウェルザー=メスト | |
| 2019年 | クリスティアン・ティーレマン | |

