高允権
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武門の家に生まれたが、武芸を習わず、義川県主簿を初任とした。膚施県令となったが、官を辞して延州の邸に帰った。後晋の開運4年(947年)、契丹が開封府に入ると、延州の兵が乱を起こし、延州節度使の周密を攻め、周密は東城を固く守った。允権は乱兵に擁立されて、知留後事となり、西城に拠り、周密と対峙した[1]。
天福12年(同年)、後漢の高祖劉知遠が供奉官の陳光穗を派遣して河西を宣撫すると、允権は支使の李彬を太原に派遣して上表し、周密は東城を放棄して退去した。允権は劉知遠により検校太傅を加えられ、正式に延州節度使に任じられた。劉知遠が開封に入ると、允権はたびたび貢献した。乾祐元年(948年)、隠帝劉承祐が即位すると、允権は検校太尉・同平章事を加えられた。允権は夏州の李彜興と合わなかった。この年に李守貞が河中府に拠って反乱を起こすと、允権は李彜興が李守貞と結んでいると非難し、李彜興はこれに反論した。朝廷は允権と李彜興を和解させた。允権はまた妻の祖父である劉景巌に軽視されていることを憎み、劉景巌の一家を殺害し、その財産を没収して、劉景巌が反乱を計画していたと奏聞した。朝廷はかれを咎めなかった。乾祐2年(949年)、西方の反乱が鎮圧されると、允権は検校太師を加えられた[2]。
広順元年(951年)、後周の太祖郭威が即位すると、允権は侍中を兼ねた。広順3年(953年)春、死去した。その子の高紹基は允権の死を長らく隠し、延州の軍政を専断し、父の位を継承しようとした。観察判官の李彬に反対されたため、李彬を殺害し、李彬の妻子と一族を捕らえて奏聞した。郭威は李彬の一族を釈放させて、汝州に安置させた。のちに朝廷が六宅使の張仁謙を延州に派遣して巡検させると、紹基はようやく允権の喪を発して奏聞した[3]。