高固 (唐)

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高 固(こう こ、生年不詳 - 809年)は、唐代軍人本貫徳州蓨県

安東都護の高侃の玄孫にあたる。卑賎の身分に生まれて、幼くしてその叔父に売られ、転々として渾瑊の家奴となり、黄芩と呼ばれた。聡明で膂力にすぐれ、騎射を得意とし、『春秋左氏伝』を読むのを好んだ。渾瑊に愛されて、自分の子のように養われ、乳母の娘を妻に迎えた。固と名乗るようになったが、これは『春秋左氏伝』の高固の名を取ったものである[1][2]

高固は若くして渾瑊に従って朔方で従軍した。建中4年(783年)、徳宗奉天に避難したとき、高固はなおも渾瑊の麾下にあった。朱泚の兵が東壅門に突入してくると、高固は精鋭の兵士を率いて長刀を振るい、数十人の反乱兵を斬った。車を引いて門の扉を塞いだため、反乱兵は退去した。功により高固は渤海郡王に封じられた。興元元年(784年)、李懐光が叛くと、徳宗はさらに梁州に避難した。邠寧留後の張昕が李懐光の命を受けて将士1万人あまりを選抜し、河中府の援軍に向かわせようとした。高固はこのとき軍中にいたため、張昕の帳中に突入し、張昕を斬首してそのことを告げてまわった。検校右散騎常侍・前軍兵馬使となった[1][2]貞元17年(801年)、邠寧節度使の楊朝晟が死去すると、高固は邠州刺史となり、御史大夫・邠寧節度使を兼ねた[3]。貞元21年(805年)、順宗が即位すると、高固は検校礼部尚書を加えられた。憲宗のとき、検校尚書右僕射に進んだ。数年して節度使を交代し、入朝して統軍となり、検校尚書左僕射に転じ、右羽林軍統軍を兼ねた。元和4年(809年)7月、死去した。陝州大都督の位を追贈された[1][4]

脚注

伝記資料

参考文献

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