高屋氏 (中原氏)
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『地下家伝』によると、高屋氏は中原康景が祖であるとされる。同書所収の永享12年(1440年) 2月25日付綸旨の案文によると、康景は同年に同族の中原康行と内豎の職掌および知行地を巡る相論を行っている。案文によると、康行側は、承安年間(1171年〜1175年)以来の正当な継承を主張し、中原康国(康行や康景の共通の先祖)・泰春がそれらを継承し、2人の死後に泰春の娘・乙女へ受け継がれたとする譲状を提示した。つまり康行は泰春や乙女の末裔ということになる。しかし、康行が一族の職掌や知行地を継承したことについて、康行の先代(父や祖父、叔父など)の関係者が全員死亡してしまっており、また正式な証文も整理されていなかったため、事情を説明したり証明したりすることが不可能となってしまっていた。一方、中原康景は、康国や、その子孫(乙女の叔父あるいは兄弟か)であり自身の先祖である中原康秀の遺領に関する置文を提示し、正当性を主張した。朝廷(日野持季ら)は両局の意見を調整したが結論に至らず、最終的に後花園天皇の裁定により、康景の子・中原康里を新たに内豎に補任することで両派を並立させる決断を下した。また、土地の支配権については、双方の提示した証拠文書の整合性を鑑み、以下のように折衷案を提示した。
- 宇治伊勢田・鈴籃田(うじいせだ・すずかごだ):康行の管領(支配)とする。康行が提示した譲状にこれらの地名が明記されていたことが決定打となった。
- 内豎町(ないじゅまち)の一箇所:康里の知行とする。康行側にはこの土地に関する有力な証拠が見当たらず、康里側の提示した文書の正当性が認められた。
- 大内梨本(おおうちなしもと)の敷地:両者の中分(半分ずつ)とする。双方の証拠文書にこの地の記載があり、権利が重複していたため、折衷案として分割支配が命じられた。
- 細美郷(ほそみのごう)の鈴籃田:両者の中分とする。双方の文書に明確な記載がなく、どちらの領有とも断定できなかったため、公平を期して分割された。
また、宮中での公事や役目(参役)については、両名が交代で勤める「番役」とすることが定められた[注釈 1][1]。
また、江戸時代後期の文政9年(1826年)に、康景や康里の子孫である内舎人・高屋(中原)康之が官務(小槻氏などの地下官人の統括役)に提出した家系訂正の報告書(注進状)の控え(『地下家伝』所収)によると、康之が自家に伝わる永享年間の綸旨(上述の史料等)を改めて精査した結果、先代まで自家の系譜に含めていた中原康興という人物が、実は別系統の人物であったことを発見した。康之は、先代が十分な吟味をせずに系図を作成した不手際を謝罪しつつ、以下の手続きを申し出ている[注釈 2][2]。
- 康興を自家の正当な系譜から除外すること。
- その根拠となる証拠書類を別紙として提出すること
系譜
『地下家伝』に記された系譜は、
の3人には「内豎」とのみ注が振られており、関係性は不明である。羽倉敬尚の出版した『朝臣系図』によると中原康行が祖とされており、「広国(康国の誤記か)」と康景が康行の子で兄弟とされている[3]。康景の次には中原康里(内豎、康景男)とあり、これ以降は系譜が明らかとなる。康里は永享12年(1440年)2月21日に綸旨によって内豎に補任されている。康里の子の中原忠康(内豎、康里男)は内豎に補任されたこと以外の詳細が不明であるものの、その子・中原重弘からは詳細な経歴が明らかとなる。重弘-国益-右政(祐忍)-右将-右康(実は右将の弟)-勝康(母は主殿寮越後守・深尾職久の娘)-康久(実は御蔵小舎人・粟田職善の子)-康在-康布(実は康在の弟)-康長(実は養子、のちに義絶)-康致(実は康布の養子、のちに義絶)-康成(実は康布の養子、のちに義絶)と続いたが、康成が義絶となったことで、代々内豎を世襲した中原氏は一度断絶した。享保14年(1729年)閏9月5日には御蔵小舎人・中原康忠(御蔵小舎人因幡守・粟津清房の養子、実は戸屋主直清の子)と主殿首・源珍化の2人が内豎に補任され、康忠は高屋を称するようになり、康成の名跡を継承した。康忠からは康昆(実は養子、母は清房の娘)-康博(実は熱田神宮前大宮司・藤原正季の末子で母は康忠の娘)-康氏(実は養子で母は康昆の娘)-康之-康胤-康共(実は康之の子)-康功と続いた[4]。
脚注
注釈
- ↑
- 内豎事康行康景等所帶之證文何被用何哉、雖被尋仰、兩局輩所存猶以不一決、但康行備進讓狀、自承安之後于今二人也、康國泰春也、一人泰春跡讓息女乙女云々、又康景出帶置文康國遺跡云々、如此文言者乙女康秀可爲各々相續歟云々、仍今一人以康景子康里所被補任也、可有御下知之旨天氣所候也、以此旨可被申入給、仍執達如件
- 内豎俸祿地事、於宇治伊勢田鈴鑑田者、任讓狀之旨、康行管領不可有相違、於内豎町者不見康行之支證之上者、任稟文一國所被付康里也、大内梨本敷地事、載兩方支證文、細美郷鈴鑑田者共不注載其名、仍至件兩所者、令中分、可致知行、就中公事參役事、結番可勤仕之旨、可有御下知之旨天氣所候也、以此旨可被申入給、仍執達如件
- ↑ 一私家傳之中、康興儀永享年中被下置候 御綸旨之趣、以相考候處、別流ニ相見候、仍之此度康興 相除注進仕候、其證別紙注進仕候、尤先代不吟味注進 仕置候段、不行届次第恐入奉存候、此段宜御沙汰可被 下候、以上 高屋 文政九年十二年 内舎人修埋大進中原康之 官務殿