高承簡
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高崇文の子として生まれた。若くして忠武軍の部将となり、のちに神策軍に入った。元和元年(806年)、父に従って劉闢を討ち、嘉王傅に任じられた。裴度が蔡州の呉元済の乱を討つにあたって、承簡は本官のまま御史中丞を兼ね、裴度の下で都押牙をつとめた。元和12年(817年)、呉元済の乱が鎮圧され、郾城・上蔡・西平・遂平の4県をもって溵州が立てられる[1]と、承簡は溵州刺史に任用された。元和13年(818年)、邢州刺史に転じた。観察使が租税の取り立てを急き立てると、承簡は下戸数百戸に代わって租税を送った。長慶元年(821年)、宋州刺史となった[2][3]。
長慶2年(822年)、汴州で兵乱が起こり、宣武軍節度使の李愿が追放されて、牙将の李㝏が留後に立てられた[4]。李㝏は部将を派遣して宋州の官私の財物を略奪しようとしたので、承簡はこれを捕らえた。これ以後、汴州から使者が来るたびに、承簡は捕らえて、1日ごとに軍門の外に引き出して斬らせた。李㝏の兵がやってくると、宋州の3城のうち南の1城を攻め落としたので、承簡は北の2城を守って抗戦し、十数回戦った。徐州の兵が救援にやってくると、李㝏は汴州の将の李質に捕らえられ、長安に送られた。宋州を包囲していた兵は退散した。承簡は検校左散騎常侍・兗州刺史・兗海沂密節度観察処置等使に任じられた[5][3]。
長慶3年(823年)、承簡は検校工部尚書・滑州刺史・義成軍節度・鄭滑潁観察処置等使となった。長慶4年(824年)[6]、検校尚書右僕射を加えられた。入朝して右金吾衛大将軍に任じられた。宝暦2年(826年)[7]、邠州刺史・邠寧節度観察処置等使として出向した。大和元年(827年)8月、病のため長安に帰る途中、永寿県の伝舎で死去した。司空の位を追贈された。諡は敬といった[8][3]。