1938年(昭和13年)岡山県阿賀郡呰部村(現:真庭市)の高杉家に出生する[4]。地元に近い岡山県立高梁高等学校へ進学する。同期には、ノンフィクション作家になる河内洋輔がいる。その後、1957年(昭和32年)に同校を卒業する[5]。
その後、東京大学へ進学する。同大学文学部で学び、1962年(昭和37年)に同大学を卒業する[6]。その後、東京大学大学院人文社会系研究科へ進学する。ここで、日本において盲ろう教育の草分的な存在であった梅津八三名誉教授が高杉の指導教官となる。これが後の高杉の進路を決めるきっかけとなった[3]。博士課程まで進学し、1967年(昭和42年)3月、同大学院を卒業する[7]。その後、すぐに梅津の助手として東大文学部で障害児の教育についての研究を行う[7]。
その後も東大で助手として研究を続けていた高杉であったが、1971年(昭和46年)東京都心身障害者福祉センターへ転職し[8]、この後、文部省の国立特殊教育総合研究所が発足すると、1974年(昭和49年)その研究員として採用される[9]。ここでの障害者教育研究で、視覚機能に問題がある重複障害児の行動[10]や脳性麻痺児の言語習得過程[11]等、多くの成果を挙げている。これにより、同研究所の第1研究室長となった[12]。また、心身障害児教育財団の第7研究部長も兼務している[13]。
1995年(平成7年)57歳で広島大学教育学部教授となる[14]。同大学の教育学部附属障害児教育実践センターに所属した[15]。2002年(平成14年)3月31日、64歳で同大学の教授を退官している[2]。高杉は、同大学を退官する際に、次のコメントを残している[3]。
「私が障害児教育にかかわった契機は大学院の時、わが国での盲ろう教育の草分けをなした故梅津八三教授が指導教官だったことにあります。点字や指文字なども付き合ってくれた盲ろう児から学びました。それから四十余年障害児・者と実際にかかわる中で彼等から多くのことを教えられました。物の概念の形成、コミュニケーション、文字の習得、数概念の獲得などなど人の行動の形成過程、学習課程の基本的道筋について学ばせてもらいました。教育とは人のもつ可能性を見出しそれを開花させるための支援する作業です。その成果は教育する者とされる者とのやりとり関係の中から産まれるものです。大学教育も学生のもつ可能性を実際に向き合う中でどう導き実現化させるかにあるということが障害教育にかかわってきた者として得た結論です。」 — 高杉弘之、退職者から広大へのメッセージ