高松静男 From Wikipedia, the free encyclopedia 獲得メダル 日本(早稲田大学) 極東選手権競技大会 金1917野球 1918年の早稲田大学野球部(後列左端が高松静男) 高松 静男(たかまつ しずお、1896年7月18日[1] - 1945年9月8日)は、日本の元アマチュア野球選手。愛知県名古屋市出身[2]。兄は名古屋商工会議所会頭を務めた高松定一[3]。妻は伊藤由太郎の三女[2]。 愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)から1915年に早稲田大学へ進学し、野球部の選手となる。ポジションは左翼手だったと伝わる。1919年に早大の主将として龍ヶ崎中(現在の茨城県立竜ヶ崎第一高等学校)を指導した記録が残っている[4]。 早大卒業後、大学野球部のアメリカ遠征に主将として加わっている[5]。また、一年志願兵となり、陸軍三等主計に任じられた[2]。1924年に大日本人造肥料(現・日産化学)に入社、1928年に大阪鉄道に転職し、1938年時点では藤井寺球場係長を務めていた[2]。 太平洋戦争で応召(時期不明)したが、自身は日本が終戦したことを知らないまま1945年9月8日にフィリピン北部のルソン島で戦死した。享年50。 東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている[6]。 脚注 ↑ 『趣味大観』趣味の人社、1935年、p.454。 1 2 3 4 『人事調査録 再版』人事調査録刊行会、1938年、タ之部84頁。 ↑ 『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年、タ160頁。 ↑ 大正九年度(第三回関東野球大会)〈茨城県立竜ヶ崎第一高等学校硬式野球部のHPより〉 ↑ 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年、タノ部1頁。 ↑ 戦没野球人モニュメント-モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(野球殿堂博物館のページ) 外部リンク 戦没野球選手慰霊(沢村栄治記念館のページ) ※高松静男の項がある。 Related Articles