高橋勝政
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高橋勝政は、常陸国新治郡下青柳村(現・茨城県石岡市)に生まれた。高橋平衛門の長男。幼少時は手に負えぬ性格であったが、成長すると文武に優れたという。17歳頃に家督を姉に譲り、医師を志したが、幕末の動乱を目の当たりにして尊皇攘夷運動に身を投じることを決意した[1]
当初は水戸藩に赴いたが、当時の藩内は内紛が激しく活動は困難であったため、同志とともに上京して長州藩の有志に加わった。熱意は来島又兵衛らに認められ、遊撃隊568人の一隊の隊長に抜擢される。ここで幕府軍や来襲した英仏艦隊らと交戦し、攘夷運動の先駆けを担った[1]。
明治維新後、官軍東征の際には山縣有朋(当時は山形参軍)を補佐し、参軍補として越後口から会津へ進撃。会津戦争で若松城を降伏させる戦功を挙げた。城下落城後、山縣と共に東京へ凱旋し、行幸中の明治天皇から天盃と賞典禄100俵を下賜された[1]。
明治6年(1873年)の陸軍制度整備に際し、勝政は陸軍大佐に任じられ、従五位下に叙せられた。その後も昇進を重ね、広島鎮台参謀長などを歴任し、明治11年(1878年)1月31日には勲四等旭日小綬章を授与された[2]。
また一時は鹿児島鎮台司令心得を命じられ、将官昇進も間近と目されたが、病により退職した。退官後は東京九段下に隠棲し、悠々自適の生活を送ったと伝えられる。文学を嗜好していたとも記録されている[3]。