高橋均 (音楽評論家)
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筆名古久 文治、K・T生。父はプロテスタントの牧師高橋鷹藏。16歳頃から信時潔に師事。東京音楽学校においてヴァイオリンを専攻するも2年で中退[1]。また在学中教えを受けた乙骨三郎の知遇を得る。日本プロレタリア音楽家同盟に所属し、1922年(大正11年)日本共産党結党の際、結党式において、翻訳された革命歌インターナショナルの足踏みオルガンを弾き、鉛筆で指揮をしての歌唱指導に参加した[2]。1923年(大正12年)中に信時の斡旋のもとに雑誌『音樂研究』を編集し、5冊を音樂研究社より発行。この頃、大山郁夫の書生となる。廃刊ののち、小笠原の父島にわたり漁師となる。その後日本労農党の長谷川如是閑主宰の雑誌『我等』に参加。さらに、1927年(昭和2年)、1928年(昭和3年)の頃プロレタリア前衛芸術家同盟の初代音楽部長を務め、雑誌『前衛』に参加[3]。1935年(昭和10年)10月より季刊誌『音樂研究』を編集し、共益商社書店より発行。1937年(昭和12年)結婚。妻はピアニスト蔭山英子。子に高橋悠治、高橋アキがいる。1938年(昭和13年)季刊誌『音樂研究』廃刊[4]。
戦後は憲法普及会に属し事務局長を務める[5]。芦田均とも親交があった。信時門下の長谷川良夫とも交流あり[6]。のち、三菱化成黒崎工場に就職。香港独立運動を経て、河出書房再建計画を立案する[7]。
雑誌『音樂研究』の仕事
音樂研究社発行の『音樂研究』が1923年(大正12年)2月創刊で、同年中に第1巻第1号から第5号まで刊行されている[8][9]。これを第1期とすると、第2期に当たる共益商社書店発行の季刊誌『音樂研究』も、1935年(昭和10年)10月に「ヒンデミット特集」の第1号を発行して出発してから、わずか3年間に第1巻第1号から第3巻第4号まで全12冊、という短命であった[4]。しかし、毎号130ページから140ページの厚さをもち、各号が特集を企画してその徹底研究といった内容のものであった。対象とする問題の範囲はひろく、邦楽研究号であったり、国語と音楽特集であったり、機械と音楽特集であったりした。「日本音楽の現状と批判」特集では、長谷川良夫の「現代流行歌論」や守田正義の日本の作曲界批判を掲載した。第3巻第1号の「シェーンベルク特集」や第3巻第3号の「バルトーク特集」などは、当時としては大胆な編集。後者はバルトークやコダーイと直接に文通をして、じきじきに資料を送ってもらい、バルトーク自身の民謡研究の9論文を翻訳紹介している[10]。「当時としては最先端のアクティヴな雑誌」[1]であり、「リアルタイムで新ウィーン楽派やバルトークを紹介」するものであった[9]。ブゾーニの『音楽美学』を掲載し、これは、高橋悠治の読むところとなった[11][注釈 1]。