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高橋景保

江戸時代後期の天文学者(1785-1829) From Wikipedia, the free encyclopedia

高橋 景保(たかはし かげやす、天明5年〈1785年〉 - 文政12年2月16日〈1829年3月20日〉)は、江戸時代後期の天文学者[1]。幼名は作助、字は子昌で、蛮蕪、観巣、Globiusなどと号した[2]。通称、作左衛門[3]。


生誕 天明5年(1785年)
死没 文政12年2月16日
〈1829年3月20日〉
(43歳没)
別名 作左衛門
概要 高橋 景保, 生誕 ...
高橋 景保
生誕 天明5年(1785年)
死没 文政12年2月16日
〈1829年3月20日〉
(43歳没)
別名 作左衛門
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生涯

1785年、天文方であった高橋至時の長男として大坂に生まれた[2]。同じく天文方の渋川景佑は弟[4]。

1797年、すでに天文方として江戸に出府していた父を追って江戸に出る[5]。江戸では父至時の下で天文暦学や地理測量を学ぶとともに、昌平黌で漢学を学んだ[5]。

1804年(文化元年)、父至時が死去すると、20歳の若さで父の跡を継ぎ江戸幕府天文方となる[2][3][6]。天文方任命の際には、景保がまだ若く十分な実力がなかったため父至時の友人であった間重富が後見を命じられ、景保は重富から天文学に関する諸学問の指導をうけた[2][7]。天文方では天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事する。

1807年(文化4年)に幕府より世界地図の作成を命を受ける[8]。世界地図作成に向け、蘭書の収集を始めたが地理学、蘭語の知識に乏しかった景保は協力者を求め、当時長崎でオランダ通詞だった馬場佐十郎が文献研究に協力するために江戸に呼び寄せられ、蘭書翻訳に取り組んだ[8]。この時集められたデュアルト『志那帝国誌』やアロウスミス「十六省九辺図」、間宮林蔵の樺太探検に関する報告をもとに、景保は『北夷考』、さらに1809年にはその増補版『北夷考証』を執筆した[9]。また、この世界地図作成の過程で試作として「新鐫総界全図」、「日本辺界略図」が作成された[10]。「新鐫総界全図」、「日本辺界略図」はいずれも亜欧堂田善により銅版で印刷され、これが日本で最初の銅版の地図となった[10]。

間重富の協力も受けて、1810年に「新訂万国全図」を完成させた(銅版画制作は亜欧堂田善)[11][12][13]。この世界地図は上述の通り、当時の西欧の世界地図や清の西洋刻本のほかに、間宮林蔵の樺太探検の成果などを取り入れた当時としては最先端の地図であったため、刊行後にはこの地図に基づく世界地図が多く作成された[11][12]。また、「新訂万国全図」もその作図、記述の正確さから、明治初年まで長く使用された[14]。1855年には改訂版の『重訂万国全図』が作成された[11]。

一方で伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成させる。ロシア使節ニコライ・レザノフが来日時に持参した満洲文字による国書を1808年に翻訳するよう命じられ、1810年に「魯西亜国呈書満文訓訳強解」を作成[15][16]。その後、満洲語の研究を進め、複数の著書を残している[17]。

大日本沿海輿地全図

1811年(文化8年)、蛮書和解御用の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始めている。

1814年(文化11年)には書物奉行兼天文方筆頭に就任した[18]。

ヴァシーリイ・ゴローウニンの『日本幽囚記』(1816年)がロシアで出版された際には、その誤った記述を正すため、ゴローヴニン事件でともに逮捕したムール少尉の「獄中上表」をオランダ語訳し、ヨーロッパで出版する計画を推進したが、シーボルト事件により果たせなかった[19]。

1828年(文政11年)のシーボルト事件に関与して11月16日(10月10日)に伝馬町牢屋敷に投獄され、翌1829年3月20日(文政12年2月16日)に獄死している。享年45。獄死後、遺体は塩漬けにされて保存され、翌1830年4月18日(文政13年3月26日)に、改めて引き出されて罪状申し渡しの上斬首刑に処せられている。このため、公式記録では死因は斬罪という形になっている。

墓は上野の源空寺。高橋至時・伊能忠敬・高橋景保の大日本沿海輿地全図組三人頭の墓地が並んでいる。

上野源空寺にある高橋景保墓(左手前)。奥に高橋至時・伊能忠敬の墓が並んでいる。

高橋景保が登場する作品

小説

映画

テレビドラマ

舞台

漫画

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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