鳥居景近と共に朝倉義景の近侍として仕え、脇備を務めたとされる[1]。元亀元年(1570年)、織田信長が敦賀に侵攻すると、景業と景近はそれぞれ500騎を率いて義景の脇備を務めた(『朝倉始末記』)[1]。その後、浅井長政が信長から離反したことにより、信長は撤退した(金ヶ崎の戦い)。この時、敦賀郡司であった朝倉景恒が同年中に亡くなったため敦賀郡司が不在となり、景業と景近が新たに奉行人として敦賀に配置されたとされる[1]。これ以降、敦賀郡司がおかれることはなかった。元亀2年(1571年)ごろから敦賀での活動がみられ、同年、景近とともに、今泉浦への浦船御用についての連署状を発給した[1]。また、若狭の武田信方や北近江の国人多胡宗右衛門尉へ連署状を発給した。同年10月ごろから通称を甚三郎から新介に変えている[1]。元亀4年(1573年)、義景が江北の国人馬場兵部丞に感状を発給した際、景近とともに副状を発給した。天正元年(1573年)、浅井長政が居城の小谷城を織田信長に攻め立てられた際、老臣の多くが反対する中、義景に長政での援軍を景近とともに進言したとされる[1]。その後、義景が刀根坂の戦いで信長に敗れた際、義景が自刃しようとしたのを景近とともに止め、多くの家臣が離反する中、一乗谷城へ帰還させたという(『朝倉始末記』)[1]。同年、8月20日に義景が大野郡の賢松寺で朝倉景鏡の裏切りにあって自害を覚悟したとき、景近とともに義景の介錯を務めた[2]。その後、自らも義景が切腹のときに使った刀を手にとって殉死した。『信長公記』には「高橋景業の死にぎわは見事なものであったという」と記されている[2]。