高橋竹之助 From Wikipedia, the free encyclopedia 高橋 竹之助(たかはし たけのすけ、1842年2月14日(天保13年1月5日) - 1909年(明治42年)11月7日)は、江戸時代幕末の尊攘運動家。明治時代の教育者、治水家。名は竹之介とも書き、「ちくかい」とも読む。諱は三寅、字は誠仲。変名として北山信や芳賀喜之七がある。号は蘇門。 越後国南蒲原郡中之島村杉之森(現在の新潟県長岡市)の名主の高橋家に次男として生まれる。生家跡には生誕地の碑が建つ。与板の斎藤赤城の塾に学び、20歳で漢学者・鈴木文臺の私塾・長善館に入門した。1863年(文久3年)、西国遊学に出発し、湊川神社の楠木正成の墓前で尊王を誓う。京都で播磨国林田藩の儒学者の河野鉄兜の門下となり、森田節斎や日柳燕石にも学ぶ。 越後に帰った後の1866年、江戸に行き、塩谷宕陰や古賀茶渓に学んだ。戊辰戦争が起こるや、松田秀次郎たちと御親兵の方義隊(後に居之(きょし)隊と改名)を結成し、公卿の沢為量に仕えた。軍が越後高田藩に進軍した際には、新政府軍の道案内を務めた。1869年、東京遷都に反対して投獄され、禁錮十年に処せられた。1879年に逢赦された。1881年、長岡殿町に誠意塾を開き、20年間で600人余りに教えた。著名な子弟に大竹貫一や武石貞松、堀口九萬一がいる。 1896年、横田切れの大洪水で越後平野が水没し、多くの農民が苦しんでいた。それを見かねた竹之助が「北越治水策」を山縣有朋に建白し、教え子の大竹議員が国会で訴えたことで大河津分水路の建設が実現している。著書に『北征日史』がある。享年は68歳[1][2]。 脚注 ↑ 近代文献人名辞典(β) 高橋竹介 ↑ コトバンク高橋竹之助 Related Articles