松田秀次郎
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越後国南蒲原郡狭口村(現在の新潟県加茂市)の庄屋である笠原家に生まれた。親戚で安田興野村 (現在の見附市今町)の庄屋である笠原勘之助の養嗣子となった。兄の笠原新吾も活動に参加した。松田姓は笠原氏の遠祖の姓で、尊攘活動で家族に難が及がことを恐れ、この変名を名乗っている。
慶応3年(1867年)杉之村(現在の長岡市中之島町)の名主の高橋竹之助と共に京都に向かった。朝廷に参内し、北越の鎮定と御親兵の取り立てを建白した。松田は帰郷したが、高橋は京に止まり、北陸道鎮撫使の公家・高倉永祜から「同志を糾合し先鋒たるべし」との沙汰書を明治元年(1868年)1月18日に受け取り帰郷した。同年2月中旬、越後国三島郡坂谷村(現在の長岡市和島村)の池浦広太郎の宅に高橋をはじめ、新発田藩領中之島組安田興野村名主松田秀次郎、中之島村の医師・二階堂保則、糸魚川藩領魚沼郡並柳村(現在の魚沼市広神村)の大割元である関谷孫左衛門などが集まった。そして、下越の隊長を松田秀次郎とし、上越の隊長を室孝次郎とする親兵の「方義隊」を結成することに決めた。新政府軍を迎えるための準備をし、同志を募ったところ隊員数は150余人となった。大半は庄屋や豪農の子弟であることが特徴であった。
同年閏4月23日、松田と二階堂は江戸において北陸道総督府から大隊旗を受領した。しかし新政府軍参謀である山県狂介らは、方義隊を嚮導役、つまり地元での道案内程度の役割しか考えていなかったので、軍隊の隊旗を与えることに異論を唱えた。結局、大隊旗を返上せざるを得なかった。また、7月には御親兵取締の巣内式部を通じて、方義隊は新政府軍の親兵として取り立てられることになり、錦章13枚をもらい受けた。ところが、巣内配下の親兵に紛乱があり、巣内も謹慎を命ぜられ、方義隊も御親兵と称したことを咎められた。これは草莽隊である方義隊が親兵となって直接、天皇や公卿などに結び付くことを薩長などの参謀が喜ばなかったことを物語っている。戊辰戦争が小出町、小千谷市、長岡に迫ると、軍に参加して、会津藩、米沢藩の征伐に加わった。同年9月に、隊名を中庸第十章の一説「金革を衽とし、死していとわざるは、北方の強なり、而して、強者之に居り」から「居之隊」と改めている。その後村上市や庄内方面へ従軍した。同年11月、松田を隊長とする三小隊の屯集が認められ、水原町や加茂町の守衛を命ぜられた。1870年の正月、東京に呼び出され、他隊の北辰・金革隊と合わせて150名の第三遊撃隊として、帝都警備に就いた。同年9月に第三遊撃隊は解散を命ぜられた。松田は隊の処遇に対する不満もあり郷里に帰って居之隊を解隊した。
1883年、新潟県史編輯主任となり、1892年、越後国一宮である弥彦神社の宮司となった。1896年8月30日死去。享年66歳。墓所は三条市東大崎村の永明寺にある[1][2][3]。