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高橋財政

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高橋財政(たかはしざいせい)は、昭和恐慌・デフレ不況への対応として、高橋是清が犬養内閣、斎藤内閣、岡田内閣の大蔵大臣在任中に実施した一連の経済政策である。一般には、高橋が1931年12月13日に5度目の大蔵大臣へ就任してから、1936年2月26日の二・二六事件で暗殺されるまでの4年余りを指す[1]。高橋の実際の大蔵大臣在任期間は1931年12月13日から1934年7月8日までと、同年11月27日から1936年2月27日までであり、その間は藤井真信が大蔵大臣を務めた[2]。

1934~1936年(昭和10~11年)頃の高橋是清(6度目の大蔵大臣在任時)

名称に「財政」とあるが、政策の範囲は財政政策に限られず、金輸出再禁止による金本位制からの離脱、円相場の下落、赤字国債を財源とする政府支出の拡大、日本銀行による国債引受け、金利の引下げから構成される為替政策・財政政策・金融政策の総体である[1]。「高橋財政金融政策」とも表現される[3]。高橋財政によって1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国発の世界中を巻き込んだ世界恐慌の影響から日本経済は他国に先駆けて回復した。その回復に対して、「高橋財政」における財政政策、金融政策、為替政策のいずれが最も寄与したかについては研究上の見解が分かれている[4]。

背景

1929年7月に成立した濱口内閣の井上準之助大蔵大臣は、旧平価による金本位制への復帰を目指し、歳出削減と公債発行の抑制を進めた。政府は1930年1月11日に金輸出を解禁したが、前年に始まった世界恐慌の影響に加え、金解禁後には正貨の流出、資本の海外逃避、通貨供給の収縮、物価と輸出の減少が進み、生糸、綿糸、農産物の価格下落を通じて農村経済も悪化した[5]。

1931年9月にイギリスが金本位制から離脱すると、日本でも金輸出が再び禁止されるとの予想から円売りと金の流出が進んだ。第2次若槻内閣の退陣後、同年12月13日に成立した犬養内閣で大蔵大臣に就任した高橋は、就任当日に金輸出再禁止を命じた[1]。

政策

金本位制からの離脱と為替政策

金輸出再禁止によって日本は金本位制から離脱し、円相場は固定された旧平価から切り離された。円は1932年11月までに、金本位制離脱直後と比べてアメリカ・ドルに対して60%、英ポンドに対して44%下落した。その後、政府は一層の円安を望ましくないと判断して相場安定へ転じ、1933年4月以降、横浜正金銀行は英ポンドを基準とする建値を提示した[1]。

政府は1932年7月に資本逃避防止法、1933年5月に外国為替管理法を施行した。ただし、鎮目雅人によれば、高橋財政期の為替管理と資本取引規制は、後の戦時期と比べて緩やかなものであった[1]。

財政支出の拡大

高橋は1932年3月、金融業者との懇談で長期国債を日本銀行に引き受けさせる構想を示した。犬養毅の暗殺後も斎藤内閣の大蔵大臣に留任し、同年6月3日、満州事変費と時局匡救事業費を含む追加予算案、歳入不足を補う公債を発行するための法律案、日本銀行による長期国債引受けの方針を議会に提出した。追加予算案と法律案は6月18日に成立した[1]。

時局匡救事業は、農村不況と失業への対策として、治水、港湾、道路、農業用排水、開墾、林道、市町村立小学校費の補助、農村経済更生などを実施するものであった。高橋は1932年9月の帝国議会で、同年度の国と地方を合わせた時局匡救関係経費を約2億6,300万円と説明し、国が負担する約1億7,600万円のほぼ全額を公債によって賄う方針を示した[6]。時局匡救事業は1932年度から3年間にわたって実施され、事業費は通算約8億6,000万円となった。一方、同時期の満州事件費は通算約11億円に達した[5]。

財務省財務総合政策研究所の整理では、1932年度から1934年度にかけて一般会計歳出、公債発行、軍事費、普通土木費が増加した。その後、普通土木費は縮小したが、軍事費は高い水準を維持した[5]。

国債の日本銀行引受け

長期国債の日本銀行引受けは1932年11月25日に始まった[1]。日本銀行は大蔵省から国債を直接引き受けた後、市場の需要を見ながら金融機関へ売却した。このため、引き受けられた国債のすべてが日本銀行に保有され続けたわけではなかった。

佐藤政則の調査によれば、1932年から1935年までに発行された国債33億8,000万円のうち、27億7,000万円、比率にして82%を日本銀行が引き受けた。このうち24億9,000万円、約90%は日本銀行の売りオペレーションによって市場へ売却された。売却された国債の消化には、三井、三菱、住友などの財閥系銀行を中核とする国債引受シンジケート銀行団が大きな役割を担った[7]。

日本銀行による国債引受けと市場への売却は高橋財政以前にも限定的に行われていたが、佐藤は、大蔵省による発行、日本銀行による引受け、市場への売却を一体的な国債発行方式として継続した点に高橋財政の特徴があったと述べている[7]。

金融緩和

日本銀行は1932年3月、6月、8月に公定歩合を引き下げた。同年6月には兌換銀行券条例が改正され、銀行券の保証発行限度が1億2,000万円から10億円へ拡大された[1]。高橋も一般金利の低下を促すため、同年10月から郵便貯金金利を引き下げるとともに、大蔵省預金部を通じて農村、中小商工業者、地方公共団体へ低利資金を供給する方針を示した[6]。

岩田規久男によれば、外貨建て国債を除く日本銀行の国債保有残高は、国債引受け前の約2億5,000万円から1932年末には5億6,000万円へ増加し、1935年には7億3,000万円となった。マネタリーベースの前年比も1930年のマイナス13%、1931年のマイナス7%から、1932年にはプラス7%へ転じた[3]。

景気回復

日本では1932年に鉱工業生産と卸売物価が上昇へ転じ、金本位制を維持していた諸国や為替管理を採用した諸国よりも早く景気回復が始まった[1]。岩田の整理では、1930年から1931年までの年平均名目経済成長率はマイナス9.6%、実質経済成長率は0.7%、消費者物価上昇率はマイナス10.8%であったのに対し、1932年から1935年までの年平均は、名目経済成長率8.3%、実質経済成長率7.2%、消費者物価上昇率2.0%となった[3]。

円安は輸出価格の競争力を高め、設備投資と個人消費も回復した。経常海外余剰の赤字幅は1931年以降に縮小し、1935年には黒字となった[3]。ただし、高橋財政の政策効果は単一の政策によるものではなく、円相場の下落、財政支出、日本銀行の国債引受け、金利低下、物価予想の変化が相互に関連していたため、それぞれの寄与を分離することは難しいとされる[1]。

財政正常化への転換

高橋は、財政収支を毎年度均衡させる必要はないが、一定期間内に均衡を回復できる見通しが必要であるとの立場を採っていた。財政支出の拡大と増税の回避によって赤字が累積したため、政府は1934年度予算で不急の新規事業を認めない方針を掲げた。しかし、歳出抑制には軍部から強い反発があり、通信事業の特別会計化による影響を除けば、一般会計の規模は前年度より増加した[8]。

1934年7月の岡田内閣成立時には藤井真信が大蔵大臣となったが、高橋は同年11月に再び大蔵大臣へ就任した[2]。高橋は1935年度と1936年度に新規公債発行額を減らし、臨時利得税を創設するなど、財政の正常化を進めた[8]。岩田は、高橋財政前期の1932年から1933年には政府支出の拡大が顕著であった一方、後期の1934年から1935年には実質政府経常支出の対国民総生産比が1920年代末と同程度まで低下しており、期間を通じて一貫した拡張財政であったわけではないと述べている[3]。

高橋は軍事費の抑制を求めて軍部と対立し、1936年2月26日の二・二六事件で暗殺された[9]。

二・二六事件後

高橋の死後、新規公債の発行額は再び増加した。財務総合政策研究所によれば、後任の馬場鍈一、結城豊太郎両大蔵大臣の下では、赤字公債の発行が財政運営の基本的な方法として認められ、公債の消化不良に対して統制的な方法を用いる方針へ転換した。高橋が進めていた財政正常化は実現せず、その後の戦時財政へ引き継がれた[8]。

一方、高橋財政とその後の戦時財政との関係については、連続性と断絶の双方が論じられている。高橋自身は公債発行と軍事費を抑制しようとしており、高橋財政期には日本銀行が引き受けた国債の大部分が市場で消化されていた。しかし、国債の日本銀行引受けという仕組みは高橋の死後も存続し、1937年以降の臨時軍事費公債の引受けに利用された[4]。

評価と研究

政策効果

高橋財政が昭和恐慌からの回復期に実施され、日本が欧米諸国より早く景気回復へ転じたことについては広く確認されているが、どの政策が回復を主導したかについては異なる分析結果が示されている[4]。

Myung Soo Chaは、1930年から1936年までの月次データを用いた分析から、国債によって調達された財政支出が景気回復に中心的な役割を果たし、日本銀行による国債引受けは金融政策を緩和的に維持する役割を担ったと結論付けた[10]。

これに対し、原田泰、佐藤綾野、中澤正彦は、財政政策が生産へ与えた効果は確認できず、物価と金融政策が生産に影響したと報告した[11]。岩田は、金本位制からの離脱と国債の日本銀行引受け方針が、経済主体の予想をデフレーションからインフレーションへ転換させ、予想実質金利の低下を通じて景気回復を促したと論じている[3]。

柴本昌彦と鎮目雅人は、産出量、物価、インフレ予想、財政収支、為替相場、通貨量を用いた構造ベクトル自己回帰モデルによって、独立した政策手段としては為替相場の調整が最も強い効果を持ち、円安とインフレ予想の変化が1932年から1934年までの生産回復へ大きく寄与したと報告した。同研究では、金融政策は他の政策と経済状況へ対応する緩和的な役割を果たした一方、独立した財政政策の効果は限定的であった[12]。伊藤正直は、財政政策、金融政策、為替政策のそれぞれを重視する分析があり、どの政策が最も有効であったかについて定説は成立していないと整理している[4]。

軍事費と民生支出

高橋財政による需要創出が軍需を中心としたものか、民需を中心としたものかも研究上の争点となってきた。伊藤が整理した中村隆英の研究によれば、中央政府の財政だけでは軍事費の増加が時局匡救費の増加を大きく上回ったが、中央と地方を合算すると時局匡救費の方が大きかった。三和良一も財政費目を分析し、軍事費支出が高橋財政期を通じて常に需要創出の主導要因であったわけではないと結論付けた[4]。

一方、時局匡救費が農村の地主層にとどまり、農村末端へ十分に届かなかったとする農業史研究からの批判や、1920年代と比較した軍事支出の増加を重視する財政史研究もある[4]。このため、公共事業と軍事費のいずれか一方だけを高橋財政の需要創出策として位置付ける評価は採られていない。

財政規律

金本位制からの離脱は、国内経済に合わせた為替・金融政策を可能にした一方、金準備と国際収支を通じて財政と通貨発行を制約していた仕組みを失わせた。鎮目は、これに代わる財政規律の制度が形成されないまま日本銀行による国債引受けを伴う財政拡大へ移行したことが、その後の財政規律の喪失につながったとの見方を示している[13]。

他方、高橋財政期には、日本銀行が引き受けた国債の大部分が市場へ売却され、高橋自身も景気回復後には公債発行の削減と増税による財政正常化を試みた[7][8]。伊藤は、高橋財政をその後の戦時財政と明確に区別する研究がある一方、国債の日本銀行引受けや為替管理など、戦時期に拡大した制度が高橋財政期に導入されたことを重視する研究もあり、両者の連続性をめぐる議論は決着していないとしている[4]。

脚注

関連項目

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