明治大正時代、「砂糖界の三ヨネ」(または「糖界の三よね」[1])という言葉がはやった。鈴木岩次郎、高津久右衛門、岩崎定三郎は関西の砂糖業界の実力者としてのしていたが、3人の妻がいずれも「ヨネ」だったため「砂糖界の三ヨネ」と束ねて呼ばれた。そして「三ヨネ」はいずれも相場の腕が確かだったと伝えられる。中でも高津ヨネは抜群の腕前を誇る。ヨネのもとには多くの証券会社が押し寄せ、注文をもらうと足早に取引所へ向かった。夫久右衛門の洋行中に相場で大当たりをやってのけ、夫が帰ってくると木造の店舗が鉄筋コンクリートに建て替わっていたとのエピソードがあるほど。
「ヨネは客におまけを惜しまなかった。主婦には砂糖の分量をまけてやり、丁稚(でっち)や子供たちには黒砂糖や氷砂糖をにこやかにおまけしてやることを心掛けた。ケチケチ精神ではとても新しい店が客の心をつかむことはできない」
欧州大戦景気に沸き立つ大正時代、高津ヨネは北浜で「女もうけ頭」と呼ばれるようになる。北浜や堂島の仲買人たちの“ヨネさん詣で”は一層頻繁になるが、ヨネは彼らに等しく注文を出すようなことはしない。仲買人たちがいくら熱心に株や商品への投資を勧めても、納得がいかないときは「さよか」と否定も肯定もしない。仲買人たちは「さよか」の真意を計りかね、「買っていただけるでしょうか」と畳かける[5][6]。