加藤文麗の門人。一説には狩野養川院惟信の門人で狩野氏を称すともいわれる。江戸の人で、高田氏、但し高氏と略すこともあった。円乗は号で、名は正和。俗称は庸助。御徒町摩利支天横町に住む。『江戸方角分』に「御徒隠居」と記されてあるため、江戸幕府御徒士衆であったと推定される。名筆で知られており、天明から没年まで画巻や絵本などを描いた。徒士繋がりからか、大田南畝や朋誠堂喜三二と交流している。また麟祥院には複数の作品が残っており、更さらに師の文麗や弟子の容斎の作品も伝来していることから、画系ぐるみの深い繋がりがあったとも想定される[1]。晩年には剃髪し隠居した。