高輪消防署二本榎出張所
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| 高輪消防署二本榎出張所 | |
|---|---|
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外観全景 | |
| 情報 | |
| 旧名称 | 高輪消防署 |
| 用途 | 公共施設(消防署) |
| 設計者 | 越智操(警視庁総監会計営繕係) |
| 施工 | 間組 [1] |
| 管理運営 | 東京消防庁高輪消防署 |
| 建築面積 | 275.16 m² [2] |
| 延床面積 | 598.35 m² [2] |
| 階数 | 地上3階 |
| 竣工 | 1933年12月28日 |
| 開館開所 | 1908年7月6日 |
| 改築 | 1985年4月24日 |
| 所在地 |
〒108-0074 東京都港区高輪2丁目6番17号 |
| 座標 | 北緯35度38分09秒 東経139度43分59秒 / 北緯35.63572度 東経139.73319度座標: 北緯35度38分09秒 東経139度43分59秒 / 北緯35.63572度 東経139.73319度 |
| 文化財 | 東京都選定歴史的建造物 |
| 指定・登録等日 | 2010年3月26日 |
高輪消防署二本榎出張所(たかなわしょうぼうしょにほんえのきしゅっちょうじょ)とは、東京都港区高輪2丁目6番17号にある消防署である。港区白金にある高輪消防署の管轄下に置かれている消防出張所であり、おもに高輪2丁目から4丁目の地域を受け持っている[3]。1908年(明治41年)7月に発足し、2024年(令和6年)時点においても、約30名の署員が勤務している現役の消防施設である[4]。道路を挟んで南西には高輪警察署が隣接する[5]。
現行の本庁舎は1933年(昭和8年)に「高輪消防署」として完成した鉄筋コンクリート造の建物で、ドイツ表現主義の影響を受けた曲線的なデザインや、「望楼(火の見やぐら)」と呼ばれる監視塔を持つことが特徴である[1][6]。かつてはこの望楼より海も眺望でき、「岸壁上の灯台」と通称された[4]。こうした背景から歴史的建築物として知られ、その建築学的・文化的価値により、現役の消防署として機能しつつも「東京都選定歴史的建造物」に指定されており[7][8]、地域の歴史的ランドマークとしての役割も担っている[9]。設計は警視庁総監会計営繕係の
防災拠点としての業務のほか、一般向けの公開も行われており、執務室を除く一部のエリア(1階の車庫や3階の講堂など)は見学が可能である[4]。庁舎内には、国産初であった昭和初期製の消防ポンプ車「ニッサン180型」の実車や、かつて使用されていた消防機材などが保存・展示されている[4]。
設置背景
江戸幕府では、火消という防火・消火制度が定められていたが、明治維新以降、江戸時代の消防制度であった複数の火消組織はそれぞれ改組されることとなった。公設組織であった「大名火消」や「定火消」は1868年(明治元年)に廃止されて治安一般を担う「軍務官」となり、残る消防分野は町人によって組織されていた「町火消」に一任された[10]。
この町火消も1872年(明治5年)に「消防組」として再編された後、さらに内務省警視局下の組織である消防隊と改められて、局内に設置された警視庁消防本署を中心とした6箇所の分署を構成して都内の消防警備にあたっており[10]、芝地域(現在の港区、当時の東京府東京市芝区)には、この6分署の一つとして、1879年(明治13年)に消防第二分署(のちの芝消防署)が設置されていた[10]。
しかし、1905年(明治38年)の日比谷焼打事件で起きた放火に当時の都内の消防は機能できず、多数の焼損を許してしまった[10]。これを受けて更なる消防力の強化が急がれたところ、1906年(明治39年)4月17日、当時の消防本署は消防本部、各分署は「署」へと昇格となり、消防第二分署は第二消防署に昇格した[10]。
この体制強化の一環として出張所の増設も実施されることとなり、1908年(明治41年)7月6日[注 1]、第二消防署管轄の二本榎出張所(第二消防署二本榎出張所、また二本榎派出所とも)が現在地へ設置された[7][10][6][注 2]。
開設後の沿革

開設時の庁舎は木造瓦葺きの平屋建てであった[15]。当初配備されたのは蒸気ポンプ及び水管馬車各1台で[16]、署には水管馬車のための消防馬1頭が配属されていた[17]。1915年(大正4年)には「火の見やぐら(望楼)」の建設工事が行われている[18]。

1919年(大正8年)には消防の機械化により、水管自動車及びダッジ・ブラザーズ製のポンプ自動車(A型ポンプ車)1台が導入されると共に、蒸気ポンプと水管馬車は廃止された[16]。1921年(大正11年)10月18日の訓令甲第41号による機具配置更改時の表によれば、2台のほかに手曳水管車1台の配備もあった[19]。
1924年(大正13年)7月1日、第二消防署三田出張所(1919年9月30日設置)の管轄となり、芝区赤羽以南の火災警備にあたることとなる[16]。そして1926年(大正15年)7月1日に三田出張所が御田消防署へ昇格したのに伴い、御田消防署高輪出張所と改称した[7][6][16]。

1930年(昭和5年)7月、担当区域が拡大する変更があった[16]のち、1933年(昭和8年)12月28日に現在の庁舎である鉄筋コンクリート造の建物が落成し、同時に「高輪消防署」へ昇格した[7][6]。翌1934年(昭和9年)2月24日に落成式が行われた[20]。ドイツ表現主義の影響を受けたこの新庁舎は、当時としては近代的な消防建築であり[2]、以後長きにわたり地域のランドマークとして機能することとなる[9](#建築に詳述)。御田消防署は本署管轄の御田出張所となり、以降、1939年(昭和14年)4月1日に芝消防署へ移管するまで管轄下にあった[6]。
この落成年代当時の配備車両として、国産の大型消防ポンプ車「ちよだ」、中型「レオ」、水槽を積載した小型「レパブリック」が記録されている[20]。落成時に「C型ポンプ車」が配備されたともある[16]。この時点での受け持ち区域は、芝消防署担当区域を除いた芝区西南部のほとんどの範囲となっていた[16]。
戦後、GHQの指導を受けた消防組織法の施行により、1948年(昭和23年)9月1日に麻布消防署所属の高輪消防所となる。1951年(昭和26年)3月3日、機構改正により再度消防署に昇格し、三光出張所・志田町出張所・高浜出張所を所轄した[7][6]。
1984年(昭和59年)10月22日、高輪消防署の本署が港区白金2丁目4番地に移転したことにより同署の所轄に入り、「高輪消防署二本榎出張所」となった[7][6]。移転に接して老朽化による取り壊しも検討されたが、その建築学的価値から保存を望む声が上がり[2]、改修を経て現役の消防施設として維持されることとなった。のちに東京都選定歴史的建造物にも選定されている[7][8]。
建築


1933年(昭和8年)落成。全面を白色のタイルで被覆した鉄筋コンクリート造・3階建の消防署である[1][2]。設計は警視庁総監会計営繕係の越智操、施工は間組による[9]。越智は、消防署庁舎の建築を設計したのは本署が初めてであった[20]。
主要2階の上に、8本の梁が中心に向かって集まる円形の3階講堂や、円筒型の「望楼(火の見やぐら)」を擁する。これらが直線にアーチ等の曲線を組み合わせたデザインを有することなどから、ドイツ表現主義を取り入れたモダニズム建築として評価されている[1][2][9][4]。
洋風の消防建築造成は明治後期の第一分署竣工(1903年〈明治36年〉9月18日)から行われてきたというが[10]、本建築の仕上がりはその中でも珍しく、落成間もない1934年(昭和9年)当時の雑誌『大日本消防』の記事によれば、当時の消防署建築の多くがコンクリート建らしい四角張ったいかめしいもの
であったのに対し、本署は滑らかな白色タイル張り
でクリスマスのお菓子の家を見る様な奇麗な仕上げ
の新様式であると評されている[20]。
1・2階に事務室・通信室・署長室およびポンプ置場などが置かれ、2階屋上は点検場、円形の3階は講堂として利用された[20]。2階の各室や、出動時に2階から迅速に滑降するための滑り棒などを配した内部構成の設計にあたっては、当時の大塚、向柳原(浅草)、本所の各消防署の長所を参考にしたとされる[20]。全体平面の形状は桂坂及び二本榎通りに向いたL字となっていて、内側に車庫から通り抜けられる中庭がある[21]。以前は中庭に給油タンクがあった[21]。
海抜25メートルの高台に立地し、かつては望楼から東京市全体を一望でき、東京湾も見渡すことができたとされる[20][9]。このことと望楼の外観から、「岸壁上の灯台」とたとえられた[20][9][4][5]。また、戦艦三笠にたとえて「海原をゆく軍艦」とも評された。本所を船首とし、道を挟んで隣接する高輪警察署は船尾になぞらえられた[5]。
前述の1934年の記事では、望楼の頂上には警視庁式の非常時用信号塔
が設置されていたと記されており[20]、内部の昇降用螺旋階段は、当時の活動写真(映画)『消防手』[注 3]の撮影にも使用されたともある[20]。
戦時中には高い望楼が空爆の標的とならないよう、大日本帝国陸軍の命令で群青色の塗料や墨が塗られた[4][9]。戦後にはほとんど洗い落とされたが、玄関脇の御影石(花崗岩)の外壁などに痕跡があるといわれる[9]。
保存

新築当初、周囲には森林が多く、望楼の展望を遮る建物がなかった[20]本署だが、ビルなどの開発が進んで見晴らしが効かなくなったことで、1971年(昭和46年)11月にやぐらでの見張り勤務が廃止され、見張り台および上部に設置されていた鉄塔(信号塔)は1979年(昭和54年)に撤去された[9]。
こうした状況の変化に加え、高輪消防署の本署機能が港区白金2丁目4番地へ移転することが決定したことに伴い、老朽化していた当庁舎の存廃について議論が起こった。すると市民などから声が上がり[23]、1982年(昭和57年)には、学術・文化的観点により日本建築学会から保存の要請がなされた[2][9]。
消防の拠点としての重要性から継続利用も決定し、1984年(昭和59年)から1985年(昭和60年)にかけ、7,000万円の予算を計上して[24]、東京消防庁と同学会の協力により改修が実施された[25]。竣工した庁舎は同年4月24日より公開となった[24]。
改修時の調査には山口廣[注 4]らが携わり[24]、非常用ガス灯などの器具が復元され、信号塔のあったやぐらの塔頂部には、前野まさる[注 5]デザインによるタワー型のモニュメントが新たに設置された[1]。2階と1階車庫を結ぶ滑り棒も保存された[5]。この滑り棒は、現在では、国内における現存最古の滑り棒とされている[26]。
高層建築の増加や電話機の普及、老朽化などにより、東京都内の望楼を擁する消防署建築は数を減らしており[16]、ことに都内において使用の中止された望楼を「保存」した試みは当時前例がなかった[9]。戦前の建築としては1988年(昭和63年)の時点で、二本榎出張所と小石川消防署大塚出張所を残すのみであったとする言及もある[9][注 6]。
建物は2010年(平成22年)3月26日、東京都景観条例に基づき、2009年度の東京都選定歴史的建造物に選定された[7][8]。
ギャラリー
- 外観
- 右側面
- 看板・警告灯
- 1階入り口天井の照明
- 2階から見た階段
- 展示室となっている講堂内部
- アール・ヌーヴォー様の非常用ガス灯
- 講堂の天井と照明
- 中庭から写した庁舎
- 墨の黒ずみが残る玄関横の花崗岩
- 日本国内に現存する最古の滑り棒