高輪神社
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| 高輪神社 | |
|---|---|
|
拝殿 | |
| 所在地 | 東京都港区高輪2-14-18 |
| 位置 | 北緯35度38分7.05秒 東経139度44分16.3秒 / 北緯35.6352917度 東経139.737861度座標: 北緯35度38分7.05秒 東経139度44分16.3秒 / 北緯35.6352917度 東経139.737861度 |
| 主祭神 | 宇迦御魂神 |
| 創建 | 明応年間(1492年 - 1501年) |
| 例祭 |
中祭(5月22日) 例大祭(9月10日) |
| 主な神事 | 鎮火祭(1月22日) |
| 地図 | |
高輪神社(たかなわじんじゃ)は、東京都港区高輪二丁目に鎮座する神社である。明応年間(1492年–1501年)に創建されたと伝えられている。[1][2]
由緒・歴史
創建・社名
当社は明応年間(1492年–1501年)に稲荷信仰の神社として創建されたと伝えられ、古くは「稲荷社」と称されていた。[1][3] 昭和4年(1929年)には、所在地の地名を冠した「高輪神社」へと社名が改められた。[2] この改称は、昭和初期に各地で進められた社名整理の動きの中で、地域の鎮守としての性格を明確にする意図があったものと考えられている。



高輪地域の地形・地名史
高輪一帯は、港区が公開する行政資料によれば、南北に延びる高台の縁にあたり、東側にはかつて海岸低地が広がっていた地形に位置している。近隣の伊皿子貝塚と類似した条件下にあり、大正末期の道路拡幅工事の際に貝層が確認されたとの伝承が伝えられている。[1] 同資料は「高輪」の語源について複数説を挙げる一方、戦国期の軍記類に見える大永4年(1524年)の「高縄原の合戦」を、由来説の一つとして紹介している。また、中世には現在よりも広い範囲が「高輪」と呼ばれたが、近世に入ると範囲は次第に縮小し、上高輪・下高輪の区分が生じたとされる。[1] また、現在の町域内において中世以前の創建を伝える社寺は高輪神社のみであり、当社は明応年間創建と記されている。[1]
近世の信仰と堂宇(太子堂・庚申堂)
江戸時代中期の明暦年間(1655年–1658年)には、境内に太子堂が建立されたとされ、聖徳太子十六歳像を祀ったという伝承がある。太子堂は現在の境内社「太子宮」に引き継がれている。[3] また、同時期に庚申堂も建立され、青面金剛像を祀っていたとされる。これらは、江戸時代には当地に所在した常照寺(現・廃寺)との関係が指摘されている。明治期の神仏分離の過程で、庚申堂は「猿田彦神社」と称され、現在は本殿に合祀されているとされる。[2]
絵図史料にみる社前景観(江戸切絵図・江戸名所図会)
嘉永3年(1850年)頃に刊行された〔江戸切絵図〕「芝高輪辺絵図」には、高輪周辺の街道・海岸線・寺社配置が描かれており、当社とされる稲荷社が街道沿いに描写されている。[4] また、天保年間(1834年–1836年)に刊行された『江戸名所図会』には、高輪海辺の景観とともに「稲荷社」「太子堂」「庚申堂」と記された堂宇が描かれており、当時の当社周辺の様子を知る史料となっている。[5]

同図が描く海岸線は現在の地形と大きく異なり、近世から近代にかけての埋立や港湾整備による海岸線の変化を示唆するものとされる。明治期には鉄道敷設のための高輪築堤が築かれ、沿岸部の景観は大きく改変された。[6]
弘化の大火(青山火事)と鎮火祭
弘化2年(1845年)1月に発生した大火は、出火地にちなみ「青山火事」とも呼ばれ、江戸市中の広い範囲に被害をもたらした。この火災により、当社では石鳥居および石門を除き、社殿・旧記・宝物類の多くが焼失したと伝えられている。現在も当社で行われている鎮火祭(1月22日)は、こうした火災の記憶と地域における防災意識を背景として継承されてきた神事の一つと位置づけられている。[2]
都市再開発に伴い
高輪ゲートウェイ駅やTAKANAWA GATEWAY CITY建設時の地鎮祭を務めた[2]。
境内社
太子宮
社殿の左側に鎮座する太子宮(たいしぐう)は、古くは太子堂と称され、聖徳太子を祀る。江戸時代には聖徳太子を崇敬する太子信仰が広く行われ、明治期の神仏分離により仏堂の性格は整理されたとされる。[3]
太子宮の石門は文政10年(1827年)7月に江戸石工組合によって寄進されたもので、左右の彫刻は唐代の故事集『蒙求』に収録された「周処三害」の説話に基づくという。彫刻は彫刻師である石田屋知卜(いしだや ちぼく)と熊山(くまやま)の作と伝えられている。[3] なお、当社の石塀には、御府内石工拾三組総若者中として、組ごとにおよそ300名におよぶ石工の名前が刻まれており、江戸時代における石工たちの信仰や結束の一端を示す資料とされている。
太子宮内には、明治8年(1875年)製作の神輿と大正5年(1916年)製作の神輿の2基が展示されており、いずれも大正12年(1923年)の関東大震災の被害を免れた、都内でも現存数の少ない神輿とされている。
また、石門前には、江戸時代に製作された力石と狛犬が置かれており、港区の文化財に指定されている。


