高野貞吉
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高野家の歴史
長岡藩は官軍に恭順せず、局外中立を主張したが入れられずに開戦して敗北。藩は領地を3分の1に減らされたので、その藩士たちも大幅な減知となったが、高野家はわずかな減知に留まった。詳細な史料が残っていないので推察の域を出ないが、敗北後の長岡藩内において相対的に出世をしたものとみられる。
高野家は本姓宇津である。信濃上田藩主・真田信之の家臣であった。先祖・七左衛門啓道が、故あって慶安元年(1648年)に長岡藩主牧野家に仕え、「高野」に改姓して馬廻役となった。啓道の長男は他藩に仕官がかなったため、次男が相続。高40石ながら大組(上級藩士)に列した(長男は、初代長岡藩主・牧野忠成の正室の実家である膳所藩・本多家に仕官となる)。
三代目・七左衛門道説は、病身のために小組(中級藩士)に格下げとなる。
四代目・秀右衛門永貞は、松永家から迎えられた養子であったが、延享3年(1746年)、家老・山本勘右衛門の手伝いとして牧野家の家譜などを著述する。これが山本家と、高野家の長い繋がりの始まりとなったとの説がある。直系子孫は段々立身して、大組に列して取次格まで出世した。
再度大組入りした後の高野家の知行は、100石から150石程度を往来し、代々、郡奉行や勘定方支配などの役方を勤めていた。幕末期の知行は120石であった[2]。
