髙砂嘉之
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経歴
家系・実業
- 出自: 兵庫県神戸市兵庫区出身。
- 父: 父・藤吉は、船舶荷揚請負業を営み、神戸市会議員も務めた。当時の名鑑では「豪邁にして意志強固」「事理を解する一人」と評されていた[3]。
- 母: 母・しずは、英文学者・寿岳文章の従妹にあたる。
- 創業: 旧制神戸三中(現・兵庫県立長田高等学校)在学中に海軍飛行予科練習生(予科練)へ志願した後、戦地へ。終戦後、1959年4月に双和運輸株式会社を設立し代表取締役社長に就任した[4]。
- 港湾功労: 神戸港における「船内荷役」の専門家として長年業界を牽引し、神戸船内協会会長も務めた。その功績により、神戸海運局長表彰、運輸大臣表彰を受章したほか、神戸開港150周年の際には港湾功労者顕彰を受章している[5]。
サッカーにおける活動
- 少年時代: 旧制中学時代にサッカーを始める。実家は船舶荷揚会社を営むなど裕福であったが、戦争の影響で倒産。スパイクを買うことができず、周囲には「家に忘れた」と伝えながら裸足で練習に打ち込んだというエピソードを持つ。
- 双和クラブ: 自社チーム(双和クラブ)を創設。監督兼選手(ゴールキーパー)として、1961年から全国都市対抗サッカー選手権大会に3年連続で近畿代表として出場。1963年には強豪・八幡製鉄と激闘を繰り広げた[6]。
- 女子サッカー: JFA初代女子委員長として、1981年に日本初の女子国際大会「ポートピア'81国際女子サッカー」を企画・開催。日本女子サッカー界の国際化の礎を築いた[1]。
- 国際外交: 1979 FIFAワールドユース選手権では、パラグアイサッカー協会会長として来日していたニコラス・レオス(後の南米サッカー連盟(CONMEBOL)会長)との出会いを機に、南米サッカー界との深いパイプを構築。アルゼンチン在住の北山朝徳との友好関係を軸とした外交は、南米クラブ王者を決めるレコパ・スダメリカーナの決勝を、神戸で4度にわたり開催させたほか、2002 FIFAワールドカップの招致活動において、南米サッカー連盟(CONMEBOL)からの票を日本に投じるよう促すなど、川淵三郎らJFA幹部による招致活動を後押しし、開催決定において重大な役割を果たした[7]。1997年には南米サッカー連盟より特別勲章を叙勲されている[8]。
人物・エピソード
- 嘉之は「選手第一(Players First)」の精神を、その言葉が普及する以前から自らの行動で体現していた。
- 代表チームへの支援: Jリーグ発足以前、サッカー日本代表が関西へ遠征する際には、自社のバスを移動手段として提供し、物心両面からサポートした。また、代表チームの宿泊先において、同宿していたプロ野球チームの選手たちの食事に比べ、代表選手の食事が質素であることに気づくと、「これでは代表選手がみっともない」と、自ら私費を投じて野球選手と同等の食事を代表チームに提供させた逸話がある。
- ヴィッセル神戸創設: 「神戸にプロ球団を」と招致運動を推進。ヴィッセル神戸が発足すると顧問を務めた。生みの親として、スチュアート・バクスター監督や永島昭浩、和田昌裕、石末龍治の獲得など、戦力強化にも力を注いだ。
- 日韓交流: 釜山と仕事上の関係があり、1976年から釜山サッカー協会と交流。1983年には同協会と姉妹提携し、神戸と釜山で若年層の親善試合を交互に行っている。韓国とのパイプを生かし、1998年にはヴィッセル神戸に金度勲を入団させるなど多方面で活躍し「兵庫サッカー界の首領(ドン)」と慕われた。
晩年
2002 FIFAワールドカップ開催直前の4月12日、神戸市内の病院にて74歳で逝去[2]。