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鬼切丸 (北野天満宮)

北野天満宮が所蔵する日本刀 From Wikipedia, the free encyclopedia

鬼切丸(おにきりまる)は、北野天満宮が所蔵する重要文化財太刀。文化庁による重要文化財の指定名称は「太刀 銘安綱(鬼切)」で[1]、所蔵する北野天満宮は一貫して「鬼切丸」の名称を用いている[4]。2017年以降、「鬼切丸 別名 髭切」とする表記が用いられるようになった[5]

名称 太刀 銘安綱(鬼切)[1]
種類 太刀[1]
時代 鎌倉時代(14世紀)[2]
概要 鬼切丸, 指定情報 ...
鬼切丸
指定情報
種別 重要文化財
名称 太刀 銘安綱(鬼切)[1]
基本情報
種類 太刀[1]
時代 鎌倉時代(14世紀)[2]
刀工 不明(詳細は本文参照)
全長 108.4 cm[3]
刃長 84.4 cm[3]
反り 3.7 cm[3]
先幅 1.9 cm[3]
元幅 3.22 cm[3]
先重 0.40 cm[3]
元重 0.69 cm[3]
重量 838.5 g[3]
所蔵 北野天満宮[1](京都府[1]
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本刀は最上氏の伝来品であり、15世紀頃成立した『剣巻』物語中の「髭切」と結び付けられている[4]。『剣巻』では髭切が鬼丸と改名したが、「鬼切」および「鬼切丸」への改名はなく、『剣巻』の全文に「鬼切」の名は見出されていない[6][7][8]

御物の日本刀である鬼丸国綱は、江戸時代には「鬼切丸」[9]と「鬼切丸国綱」[10]と称された例があるが、本項目の鬼切丸とは異なるものである。

国宝の日本刀である童子切安綱については、「鬼切」[11][12]「鬼切丸」[13][14]とする呼称が中世以降の史料に見られるが、本項目の鬼切丸とはまた異なるものである。ほかにも、現存する「鬼切」「鬼切丸」と称される刀は複数存在するため、詳細は安綱の項を参照。

伝来

伝承

源満仲により天下守護のため打たれたと伝わる源氏の重宝。試し切りの際に罪人の首だけではなく、髭まですっぱりと切れてしまったとの逸話により、「髭切」の名が付された。源頼光四天王の一人渡辺綱が、一条戻り橋にて美女の鬼に出会い連れ去られようとした際に北野天満宮上空で鬼の腕を切って九死に一生を得たことから鬼切丸の名がつけられた[15]

来歴

最上家以前の伝来は客観的な史料が見当たらない。享保17年(1732年)11月21日徳川吉宗の命により最上義章が台覧に供した。当時の記録には、銘の有無や銘字についての記載はない[16]。その後、家臣の高楯伝兵衛の指示により、最上家の会計である依田七兵衛の伯父・依田野水が、刀身・白鞘・刀掛・刀袋の様子を写した押形を作成した。この押形は現存が確認されておらず、その所在も不明である[17]

松浦静山の聞き書きによれば、参勤交代の際に随行した唐櫃の「鬼切丸」は代剣であり、本物は大森八幡宮(滋賀県東近江市大森神社)に保管され、銘は「国綱」であったという。最上図書助義便の時代には、毎年2月初卯日の八幡の祭りの際に、これとともに祭られていた。虫干しの折に本刀を出しておいたところ、夜中にひとりでに抜け出して他の刀と打ち合い、他刀に疵を付けたが本刀は無傷であったと伝える[18]

郷土史家・川崎浩良は、参勤交代の際に鬼切丸も江戸–大森間を往復したとし、道中では箱の下をくぐれば「おこり」に罹らないとの評判から、冥加金を納めて競って箱の下をくぐるのが常であったと伝えている[19]。しかし、松浦静山は代剣を用いたと記している。

最上義連の孫・最上義崇所蔵の『最上宗家御歴代系統法号』によれば、本刀は最上家に伝来した「源頼光ゆかりの重宝」の一つとされる。

『最上宗家御歴代系統法号』[20]

最上宗家第壱重宝
源頼光公御着用兜八幡座大本尊
源頼光公御守蜘蛛切丸短刀
源頼光公父満仲公依賜鬼切丸太刀

文政10年(1827年)成立の『以呂波部類古今刀剣銘尽』によれば、最上家にも「天光丸」一振が伝来していたとされるが、壺井八幡宮に現存するものとは同一の刀ではない[21]

年代不明の写本である『最上家伝覚書』には、寛文年間に酒井雅楽頭稲葉美濃守久世大和守ら老中が最上家の私邸で本刀を拝見したと記されているが、その時点で剣の伝来記はすでに焼失していたとある[22][23]。また、酒井忠清ら老中が最上家私邸を訪れたことについて、同時代の第三方史料による記録は確認されていない。

明治維新期、最上義連の指示により家老・鳥越準左衛門が来歴を調査し、明治2年12月20日(1870年1月21日)に報告書を提出した。本刀は、時代により「鬼切丸」から「友切」へ改名され、のち再び「鬼切丸」とされたとする。伝来は源満仲から源頼光を経て、源頼国方より源義家がこれを強いて借り受けたとする。その後は箱根神社の神宝となり、源頼朝を経て再び源氏に戻り、以後最上家に伝わったとする。同書は刀銘について「国綱と二字 但伝来は安綱と申居候」と記載している。

鬼切丸伝来記[17]

此太刀は就中源家累代の重器であるが、鬼切丸と云ふ称号は時代によりて同しからず、或は友切抔とも称したことがあり、後復鬼切丸と唱へて今日に及んだものである。而して伝来は元祖満仲より頼光に伝はり八幡太郎義家が康平六年東夷征伐を命ぜられたる際、名剣の威徳に非ざれば輙ゆく朝敵を討平ぐることは出来ないと云ふので、頼光の正嫡頼国方より伝来の鬼切丸を強て借受けたもので、其より義家正嫡の方へ伝はり一時箱根権現の神宝となり、又源頼朝に伝はり、其後再び源家に伝はり、以来最上家に伝来したものである。

京都国立博物館の展示解説では、付属する「鬼切丸伝来記写」によると足利泰氏(1216–1270)から子の足利(斯波)家氏に伝わり、その後斯波氏の子孫である最上家が継承したとする[24]

明治3年(1870年)正月8日、最上家は新政府の召に応じて本刀を近江より取り寄せ朝廷に差し出した。朝廷の評議の場に召された本阿弥伊勢大丞(本阿弥光品)は本刀を拝見し、「是は安綱の作であります。国綱の作で鬼丸と申す刀を御預りしたことがありますが、中々天地の違であります。安綱に相違ありません」と述べたという。本阿弥光品は当時、鬼丸国綱の保管に関与しており、本阿弥家の伝記類には同御物を「鬼切丸国綱」と称する記載が見られる[10]。しかし、本阿弥光品の発言は口頭の所見に留まり、本阿弥家から本刀に対する正式な折紙(鑑定書)は交付されていない。明治天皇による親覧が行われたかどうかについては、一次史料に明確な記載は存在しない[17]

明治4年(1871年)の廃藩置県後、当主の最上義連は旧領の茶商いに失敗して破産し、伝家の重宝類も売り払って借財にあて、鬼切丸も京都の質屋に入質された。義連は破産後に失踪し、のち町人籍に改めて毛呂長兵衛と称し、新暦1889年(明治22年)に没した。義連の失踪に伴い入質されていた鬼切丸は、1880年(明治13年)に滋賀県令の篭手田安定が有志の寄附で請け戻して最上家に返し、同家の意向で北野天満宮に奉納された[25]。1927年(昭和2年)4月25日古社寺保存法に基づく旧国宝に指定された[26]

2023年(令和5年)11月29日、北野天満宮は本刀を対象として、刀身の外装である太刀拵を新規制作し奉納することを目的としたクラウドファンディングを開始した。刀身に伝来する拵が存在しないことを理由に、現代の技術により新たな拵を制作するものである。募集は2024年(令和6年)1月25日に終了し、2,262人の支援により総額57,841,643円が集まった[27]

論争

伝承をめぐる論争

本刀の伝承については複数の主張が存在する。

付属する『鬼切丸伝来記写』では、足利尊氏の高祖にあたる足利泰氏(1216–1270)からその子の足利(斯波)家氏へと伝わり、その後斯波氏の子孫である最上家に伝来したとする[24]。しかし、『法華堂文書』によれば、正史上の髭切(鬚剪)は弘安9年(1286年)12月5日霜月騒動による安達氏滅亡ののちに北条貞時のもとに渡り、陸奥入道真覚によって鎌倉法華堂に奉納されたとする[28][29]。この主張は同文書の記載および髭切の伝来経路と矛盾する。さらに、『太平記』に新田義貞(1301–1338)の鬼切とも矛盾する。同書の叙述では、鬼切は新田氏の祖伝の太刀とする[30]。『太平記』全巻に髭切の名は見出されていない[31]

1895年(明治28年)10月版の『平安通志』において、本刀を『太平記』における新田義貞の鬼切と鬼丸に結び付ける主張が初めて確認される。

『平安通志』巻四十六[32]

一、太刀 在銘粟田口国綱作、鬼切丸ト号ス、長二尺八寸二分、直烔白鞘入

伝新田義貞藤島ニ於テ戦死ノ時、帯ヒシ剣ニシテ、足利織田豊臣徳川四家ニ相伝ス、後家康故アリテ最上左馬頭ニ預ケ之ヲ監セシム、明治維新、最上氏所有ニ帰セシカ、信徒之ヲ購求シテ、当社ニ寄附ス。

しかし、このような「足利・織田・豊臣・徳川四家相伝」とする叙述は、足利将軍家に伝来した鬼切(童子切安綱[注 1][33]と鬼丸(鬼丸国綱[注 2][34]の由緒を流用した可能性がある。

1947年(昭和22年)、郷土史家・川崎浩良は著書において、伯耆安綱の代表作とされてきた丹波の鬼賊退治の由緒、すなわち童子切の由緒を「鬚切丸」の名で最上家の鬼切丸に初めて接合し、源満仲頼光から新田義貞斯波家兼兼頼を経て最上家に至る系譜を書き表した[35]。この義貞から最上家に至る伝来経路は、いかなる第一手史料にも見出されず、川崎個人の創作とみられる。

川崎浩良 著『出羽文化史料』

平安朝の頃、多田満仲が鬚切丸、膝丸の両刀を所有し、鬚切丸を其子頼光に伝へたが頼光は正暦元年、丹波の鬼賊を退治して動功あり、其時此鬚切丸を帯して居たことから由来其太刀を鬼切丸と称じ、頼義義家頼朝義貞家兼兼頼と相伝はり、兼頼と共に山形に来たのである。

川崎はまた、最上家の従前の足利氏伝来説も採用していない。同書において「鬼切安綱」という名称を創出し、新田義貞の鬼切伝承を童子切から本刀へ置き換える主張を初めて掲げた。この主張は後に最上義光歴史館および北野天満宮に踏襲された[36][4]。川崎はまた、明治3年正月8日の記録を基に、取次役および本阿弥光品の発言を明治天皇による称賛であるかのように叙述しているが、当日の記録に天皇の親覧や賛辞の記載は見当たらない[17]

1973年(昭和48年)刊行の『山形市史』は、『太平記』における新田義貞の鬼切に加えて、次のように詳細な主張を行っている:「摂津守頼光が大江山の酒呑童子を退治したとき、その首を斬った刀といい、頼光から郎党の渡辺綱に与えられ、綱は羅生門で鬼の腕を斬り、また茨木童子を討ち取った刀といい」[注 3]。これを伯耆安綱作の太刀とし、その後最上家に伝承されたとする主張を示している[37]。この主張はその後『上山市史』にも採用されており、川崎浩良の説を踏まえたものとみられる[38]

2017年(平成29年)、北野天満宮での展示解説板には、「当宮に伝わる刀剣の中で最古のもの、附属の伝来記によれば、源満仲が長男の頼光に与えて以降、源氏、足利氏、斯波氏から出羽最上氏へと、源氏の家系に伝わったといい、鬼切丸の号は、頼光が大江山の酒呑童子退治でこれを用いたからという」と記されていた[39]

2019年(令和元年)8月、春日大社「最古の日本刀の世界 安綱・古伯耆展」の広報では、「大江山の酒呑童子を切ったことから『鬼切丸』と名付けられた安綱の代表作で、北野天満宮の至宝を展示」と記されていた[40]

同年12月、春日大社の展示図録では、「酒吞童子を切った」とする記述は見られず、『剣巻』の髭切説話に基づく叙述が採られている。『剣巻』において髭切の刀工を「筑前国三笠郡土山てと云所にこそ唐国より鉄細工」[41][42][8]とする叙述を、伯耆安綱へと置き換える主張がなされている。また、新田義貞の鬼切伝承と結び付ける点については、川崎浩良の説と共通する内容が引き続き見られる。

図録『最古の日本刀の世界 安綱・古伯耆展』[43]

清和源氏の流れをくむ源氏の家に代々受け継がれてきた宝刀、鬼切丸。清和天皇の孫平経基(原文ママ)の嫡男多田満仲が、伯耆国大原の刀工、安綱に依頼し、髭切、膝丸の両刀を作らせたと伝わる。髭切の名の由来は、罪人の首を切った際、その髭までがすっぱりと切れてしまったことにあり、切れ味の鋭さは折り紙つき。髭切は、満仲の嫡子源頼光に伝わり鬼切丸と名を変える。その由来に関しては諸説あるが、北野天満宮には 次のような話が伝わる。
曰く、頼光が配下の武将、頼光四天王の筆頭渡辺綱に髭切を貸し与えたところ、綱は一条戻り橋で美しい女性姿の鬼と遭遇、鬼は綱を捕らえて舞い上がり愛宕山へと連れ去ろうとした。しかし北野天満宮上空にさしかかつたところで、綱は鬼の片腕を切り落とし、九死に一生を得ることとなる。綱はこれも天満宮大神のおかげと神恩感謝し、のちに石燈籠を寄進したという。これにより「髭切」には「鬼切丸」の名が付されることとなり、北野天満宮の御本殿前中庭には、渡辺綱が奉納したと伝わる石燈籠がのこされた。
『太平記』によると、鬼切丸はその後源氏数名の手を経て新田義貞の帯びるところとなり、義貞を討つた斯波高経をへて大崎斯波家、そして最上家へと伝わる。

現在、北野天満宮における展示解説は『剣巻』の髭切説話に基づく叙述へと移り、川崎浩良による新田義貞の鬼切伝承への結び付けという主張も引き続き見られ[4]、各種媒体を通じて広く流布している[44][45]。その結果、童子切の固有の新田義貞鬼切の伝承は覆い隠されるに至っている。

銘文とその問題

本刀の銘文は、「安」字の上に国構えを加えることで「国綱」銘へと改竄されたものである[35]。現代の鑑定では、この「安綱」銘も安綱以外の者による後世の追刻と考えられている[3]

昭和期の刀剣史家・原田道寛は、最上家に伝来した鬼切丸について、かつて無銘であった時期の押形が存在したことを記している[46]。この押形は現存が確認されず、所在も不明である。

2006年(平成18年)、最上義光歴史館の布施幸一は、本刀の銘文改竄についての見解を述べている。彼は、正宗粟田口吉光と並んで国綱の名は見出される一方で安綱の名は見出されないとし、このことが銘文改竄の一因となったと推測した[36]。しかし、最古の古剣書とされる『観智院本銘尽』には安綱が「神代より当代まで上手」として記載されており[47]、室町時代前期の鑑定家・宇都宮三河入道の伝える「平泰時被評定分」では安綱を古刀上工の筆頭に据えている[48]。また、室町から江戸時代にかけての古剣書においても安綱の名は一貫して見出され、布施の主張する「安綱の名を見出すことができない」との叙述と整合しない。

2007年(平成19年)、京都国立博物館名誉館員の稲田和彦は、本刀を古備前刀工の作とする[49]

2016年(平成28年)、京都国立博物館で開かれた講座「刀剣を楽しむ─名物刀を中心に─」では、安綱真作の銘は「安」が小さく「綱」が大きいのに対し、本刀は両字とも大きく鎬筋を越えて刻されていると説明された[50]

2018年(平成30年)、京都国立博物館の特別展「京のかたな」では、本刀は作風において備前風が強く、全体の体配も鎌倉時代を遡らないとされ、時代表記は「鎌倉時代 13世紀」とされている[3]

2025年(令和7年)、東京国立博物館の特別展「旧嵯峨御所 大覚寺-百花繚乱 御所ゆかりの絵画-」の講座では、本刀の姿は10–12世紀の童子切安綱および13世紀の鬼丸国綱とは異なるとされ、14世紀の作と説明された。展示における時代表記は「鎌倉時代 12~14世紀」とされている[51]

2026年(令和8年)、京都国立博物館の特別展「北野天神」では、本刀について「製作時期は他の有年紀作と比較すると鎌倉時代・十四世紀を想定するのが妥当である」と記されている。同解説ではあわせて、本品が「鬼切丸」の号を持ち、最上家において髭切と見做されてきたことと、上記の製作時期とは矛盾しないとする見解が示されている。その理由として、髭切・膝丸に関する伝説は源氏にまつわる複数の刀剣伝承が集約されたものであり、本品のような名刀にはそれらの物語が仮託され得ると説明されている[24]

脚注

関連項目

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