嘉永3年(1850年)12月20日生まれ。幕府歩兵駐屯所医師であった手塚良仙の弟・手塚(鮭延)良節の子として生まれる。
明治7年(1874年)5月22日、緒方惟準の適々斎塾に入門した。その後、軍医試補となり、西南戦争期には大阪陸軍臨時病院に配属され、病室勤務に従事した。この時期、軍医で按摩研究者でもあった長瀬時衡の薫陶を受けたとされる。
西南戦争中、叔父の手塚良庵が赤痢により大阪陸軍臨時病院で死去した際には、その治療に直接携わった。
明治12年(1879年)に軍医補となり、明治16年(1883年)の官員録では剤官補と記されていることから、この頃一時的に薬剤官へ転じたものと考えられる。明治17年には三等剤官となるが、約2年後には再び軍医畑に戻り、二等軍医を経て、明治23年(1890年)に一等軍医へ昇進した。
この間、連隊附属医として金沢・姫路・佐倉など各地の連隊に勤務した。明治23年には医術開業免状の下付を受け、東京市麹町において開業している。
明治26年(1893年)には陸軍一等軍医として大阪陸軍衛戍病院付となったが、同年4月22日に免ぜられ、輜重第一大隊付を命じられた。同年5月5日付で、長瀬時衡訳『萊氏按摩術』の後書きを「正七位勲六等 鮭延良治謹識」として記している。
同年、予備陸軍省医監長であった長瀬時衡が設立した仁寿病院(および附属施設)において教授を務めた。さらに、岳父である長瀬の業を継ぎ、欧米医家の理論を参照しつつ、婦嬰科領域を含む病者に対してマッサージ療法を施すとともに、研究希望者のため講習所を設け、教育・指導にあたったとされる。
明治27年(1894年)3月には、フランス保護領カンボジア王国の勲章を授与されている。