幼少から学問を習う。慶応元年(1865年)、幕府からの命令にてオランダに留学。明治元年(1868年)に帰国し、京都の典薬寮の医師となり、明治天皇の侍医となった。明治2年(1869年)に八丁目寺町の大福寺(現・大阪市天王寺区上本町4丁目)に設立された浪華仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長となり、オランダの軍医ボードウィンらとともに病院の運営した。明治4年(1871年)から陸軍の軍医となり、明治18年(1885年)には陸軍軍医学会長兼近衛軍医長として脚気の予防策に麦飯給食を勧めたが、軍上層部と対立し、明治20年4月陸軍を辞して大阪にて緒方病院を開設した。1905年(明治38年)10月16日、後備役陸軍一等軍医正を退役した[2]。
洪庵、惟準、銈次郞、準一と続いた本家の医業は、準一長男の惟之(1925年生、慈恵医大卒)が奈良市で開業していた整形外科医院を閉じて途絶えた[3]。