鮮于スン
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経歴
平安南道平壌(現・朝鮮民主主義人民共和国平壌市)出身。西北学会で機関紙『西北学会月報』に寄稿するなどの活動を行った。また、1907年から1910年3月まで大韓毎日申報の記者を務めたという記録が『朝鮮紳士録』にあるものの、韓国側からの確認はできていない。1909年4月より平壌新聞編集部長を務め、1910年11月、普成法律商業学校(現・高麗大学校)法科を卒業したのち日本に留学し、同志社大学でキリスト教を学び卒業。帰国後は既成教会の伝道師として平安南道地域でキリスト教の布教活動に務めた。1917年4月には精米所を開業している。1919年4月、三・一運動の影響が大きくなると、日本人のキリスト教関係者などで排逆遊説団を組織し、黄海道や平安南道一帯で運動や運動に続く動きなどを鎮静化させる活動を行った。1920年10月には大東同志会を組織し、その会長に就任した。その後平壌府協議会議員などを経て、1921年に中枢院の賛議となり、1927年6月には正七位に叙された。1933年に死去するまで賛議を務めた[1]。死後、親日派リストに弟とともに選ばれ、2007年、親日反民族行為真相究明委員会が発表した親日反民族行為195人名簿にも同じく弟とともに選ばれた。