三・一運動

1919年に朝鮮半島で起こった日本に対する独立運動 From Wikipedia, the free encyclopedia

三・一運動(さん・いちうんどう、サミルうんどう[1])は、1919年大正8年)3月1日日本統治時代の朝鮮で発生した大日本帝国からの独立運動

日時1919年3月1日-1919年4月11日
目的朝鮮の独立
概要 三・一運動, 日時 ...
三・一運動
タプコル公園のレリーフの1枚
日時1919年3月1日-1919年4月11日
場所大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮
目的朝鮮の独立
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ハングル 3·1 운동
漢字 三一運動
発音 サミルンドン
RR式 samirundong
概要 三・一運動, 各種表記 ...
三・一運動
各種表記
ハングル 3·1 운동
漢字 三一運動
発音 サミルンドン
RR式 samirundong
MR式 samirundong
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三・一独立運動(さん・いちどくりつうんどう、サミル トンニップ ウンドン[2])、独立万歳運動(どくりつばんざいうんどう)、己未独立運動(きびどくりつうんどう、기미독립운동[3]とも。統治領域内での反乱事件とみなす立場から、日本では朝鮮騒擾事件(ちょうせんそうじょうじけん)、萬歳騒擾事件(ばんざいそうじょうじけん)、万歳事件(ばんざいじけん)とも呼ばれた。

現在の韓国では肯定的に評価され、3月1日を「三一節: 3·1절)」として政府が国家の祝日に指定しており、同日には現職大統領が出席して演説を行う記念式典が開催されるなどしている[4]

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)では三・一人民蜂起(さんいちじんみんほうき、3.1인민봉기)[5]と呼ばれる。北朝鮮では韓国とは反対に、「失敗したブルジョワ[注 1]蜂起」と否定的な評価をしているなど、今なお敵国同士である南北での認識に差がある[6]

概要

運動の引き金となった高宗の葬儀

第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは、アメリカ議会において「十四か条の平和原則」を発表した[7]

これを受け、民族自決の意識が高まった李光洙ら留日朝鮮人学生たちが東京府東京市神田区(現:東京都千代田区神田駿河台)のYMCA会館に結集し、「独立宣言書」を採択した(二・八独立宣言)ことが伏線となったとされる。この時の独立宣言書は金瑪利亜(金マリア)によって日本から朝鮮に運ばれた。

一方民衆では、スペイン風邪の誤った対応のため民心は悪くなり、「日本が朝鮮王を毒殺した」という噂が広まった。これに呼応した朝鮮キリスト教仏教天道教の各宗教指導者ら33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗(李太王)の葬儀に合わせ、行動計画を定めたとされる。

3月1日から5月末日までの間に、延べ200万人が運動に参加した。日本政府は、陸軍6個大隊を派遣して運動を弾圧、それにより7000人の朝鮮人が殺された[8]。一方、日本人死者10人、 負傷者15人が出ている[9]

経緯

民族代表33人

3月1日午後、京城(現・ソウル)中心部のパゴダ公園(現・タプコル公園)に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画した。実際には仁寺洞泰和館(テファグァン)に変更され、そこで宣言を朗読し万歳三唱をした[注 2]

参加者は、以下の33名であり、しばしば民族代表33人といわれる[注 3]

さらに見る 宗教, 人名 ...
宗教人名[3]役職
天道教孫秉熙天道教前教主
権東鎮天道教教師
呉世昌
林礼煥
羅仁協
洪基兆
朴準承
梁漢黙
権秉悳
羅龍煥
李鍾勲天道教長老
洪秉箕
李種一「天道教月報」編集長
崔麟普成高等普通学校校長
金完圭一般信徒
キリスト教李昇薫長老派教会長老
李明龍
朴熙道キリスト教青年会中央幹事
李甲成セブランス病院事務員
梁甸伯
金秉祚
劉如大
吉善宙
呉夏英南部メソジスト牧師
申錫九
鄭春洙
崔聖模北部メソジスト牧師
李弼柱
申洪植
金昌俊北部メソジスト伝道師
朴東完北部メソジスト教会補佐書記
仏教韓龍雲臨済宗僧侶
白龍城曹渓宗僧侶
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独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年(大正8年)2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島13都市に配布したとされる。高宗の国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画されるようになった。朴泳孝など高官への働きかけや学生に対する参加呼びかけも行ったが、前者への働きかけは成功しなかった。

独立宣言

タプコル公園にある独立宣言書のモニュメント

独立宣言は、以下の一文から始まっている。

吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。
宣言書

吾等은 玆에 我朝鮮의 獨立國임과 朝鮮人의 自主民임을 宣言하노라 此로써 世界萬邦에 告하야 人類平等의 大義를 克明하며 此로써 子孫萬代에 告하야 民族自存의 正權을 永有케 하노라 半萬年歷史의 權威를 仗하야 此를 宣言함이며 二千萬民衆의 誠忠을 合하야 此를 佈明함이며 民族의 恒久如一한 自由發展을 爲하야 此를 主張함이며 人類的良心의 發露에 基因한 世界改造의 大機運에 順應並進하기 爲하야 此를 提起함이니 是시ㅣ 天의 明命이며 時代의 大勢ㅣ며 全人類共存同生權전의 正當한 發動이라 天下何物이던지 此를 沮止抑制치 못 할지니라 舊時代의 遺物인 侵略主義强權主義의 犧牲을 作하야 有史以來累千年에 처음으로 異民族箝制의 痛苦를 嘗한지 今에 十年을 過한지라 我生存權의 剝奪됨이 무릇 幾何ㅣ며 心靈上發展의 障礙됨이 무릇 幾何ㅣ며 民族的尊榮의 毁損됨이 무릇 幾何ㅣ며 新銳와 獨創으로써 世界文化의 大潮流에 寄與補裨할 奇緣을 遺失함이 무릇 幾何ㅣ뇨 噫희라 舊來의 抑鬱을 宣暢하려 하면 時下의 苦痛을 擺脫하려 하면 將來의 脅威를 芟除하려 하면 民族的良心과 國家的廉義의 壓縮銷殘을 興奮伸張하려 하면 各個人格의 正當한 發達을 遂하려 하면 可憐한 子弟에게 苦恥的財產을 遺與치 안이하려 하면 子子孫孫의 永久完全한 慶福을 導迎하려 하면 最大急務가 民族的獨立을 確實케 함이니 二千萬各個가 人마다 方寸의 刃을 懷고 人類通性과 時代良心이 正義의 軍과 人道의 干戈로써 護援하는 今日吾人은 進하야 取하매 何强을 挫치 못하랴 退하야 作하매 何志를 展치 못하랴 丙子修好條規以來時時種種의 金石盟約을 食하얏다 하야 日本의 無信을 罪하려 안이하노라 學者는 講壇에서 政治家는 實際에서 我祖宗世業을 植民地視하고 我文化民族을 土昧人遇하야 한갓 征服者의 快를 貪할 ᄲᅮᆫ이오 我의 久遠한 社會基礎와 卓犖한 民族心理를 無視한다 하야 日本의 少義함을 責하려 안이하노라 自己를 策勵하기에 急급한 吾人은 他의 怨尤를 暇치 못 하노라 現在를 綢繆하기에 急한 吾人은 宿昔의 懲辯을 暇치 못하노라 今日吾人의 所任은 다만 自己의 建設이 有할 ᄲᅮᆫ이오 決코 他의 破壞에 在치 안이하도다 嚴肅한 良心의 命令으로써 自家의 新運命을 開拓함이오 決코 舊怨과 一時的感情으로써 他를 嫉逐排斥함이 안이로다 舊思想舊勢力에 羈縻된 日本爲政家의 功名的犧牲이 된 不自然又不合理한 錯誤狀態를 改善匡正하야 自然又合理한 政經大原으로 歸還케 함이로다 當初에 民族的要求로서 出치 안이한 兩國倂合의 結果가 畢竟姑息的威壓과 差別的不平과 統計數字上虛飾의下에서 利害相反한 兩民族間에 永遠히 和同할 수업는 怨溝를 去益深造하는 今來實績을 觀하라 勇明果敢으로써 舊誤를 廓正고 眞正한 理解情에 基本한 友好的新局面을 打開함이 彼此間遠禍召福하는 捷徑임을 明知할 것 안인가 ᄯᅩ 二千萬含憤蓄怨의 民을 威力써 拘束함은 다만 東洋의 永久한 平和를 保障하는 所以가 안일 ᄲᅮᆫ 안이라 此차로 因인하야 東洋安危의 主軸인 四億萬支那人의 日本에 對한 危懼와 猜疑를 갈수록 濃厚케 하야 그 結果로 東洋全局이 共倒同亾의 悲運을 招致할 것이 明하니 今日吾人의 朝鮮獨立 朝鮮人으로 하야금 正當한 生榮을 遂케 하는 同時 日本으로 하야금 邪路로서 出하야 東洋支持者인 重責을 全케 하는 것이며 支那로 하야금 夢寐에도 免하지 못 하는不安恐怖로서 脫出케 하는 것이며 ᄯᅩ 東洋平和 重要한 一部를 삼는 世界平和人類幸福에 必要한 階段이 되게 하는 것이라 이 엇지 區區한 感情上問題ㅣ리오 아아 新天地가 眼前에 展開되도다 威力의 時代가 去하고 道義의 時代가 來하도다 過去全世紀에鍊磨長養된 人道的精神이 바야흐로 新文明의 曙光을 人類의 歷史에 投射하기 始하도다 新春이 世界에 來하야 萬物의 囬蘇를 催促하는도다 凍氷寒雪에 呼吸을 閉蟄한 것이 彼一時의 勢ㅣ라하면和風暖陽에氣脈을 振舒함은 此一時의 勢ㅣ니 天地의 復運에 際하고世界의 變潮를 乘한 吾人은 아모 躕躇할 것 업스며 아모 忌憚할 것 업도다 我의 固有한 自由權을 護全하야 生旺의 樂을 飽享할 것이며 我의 自足한 獨創力 發揮하야 春滿한 大界에 民族的精華를 結紐할지로다 吾等이玆에奮起하도다 良心이 我와 同存하며 眞理가 我와 幷進하는도다 男女老少업시 陰鬱한 古巢로서 活潑히 起來하야 萬彚羣象으로 더부러 欣快한 復活을 成遂 되도다 千百世祖靈이 吾等을 陰佑하며 全世界氣運이 吾等을 外護하나니 着手가 곳 成功이라다만 前頭의 光明으로 驀進 ᄯᅡ름인뎌

公約三章

一、今日吾人의 此擧는 正義人道生存尊榮을 爲하는 民族的要求ㅣ니 오즉 自由的精神을 發揮할 것이오 決코 排他的感情으로 逸走하지 말라

一、最後의 一人ᄭᅡ지 最後의 一刻ᄭᅡ지 民族의 正當한 意思를 快히 發表하라

一、一切의 行動은 가장 秩序를 尊重하야 吾人의 主張과 態度로 하야금 어대ᄭᅡ지던지 光明正大하게 하라

朝鮮建國四千二百五十二年三月一日 朝鮮民族代表

孫秉熙 吉善宙 李弼柱 白龍城 金完圭

金秉祚 金昌俊 權東鎭 權秉悳 羅龍煥

羅仁協 梁旬伯 梁漢默 劉如大 李甲成

李明龍 李昇薰 李鍾勳 李鍾一 林禮煥

朴準承 朴熙道 朴東完 申洪植 申錫九

吳世昌 吳華英 鄭春洙 崔聖模 崔麟

韓龍雲 洪秉箕 洪其兆


なお、北朝鮮側は、独立宣言を「投降主義分子がウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領)の民族自決主義に無駄な期待を掛け、請託と物乞いで独立を離陸させようとして繰り広げたどんちゃん騒ぎ」として否定的な評価を行っている[10]

運動の広がり

発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであったパゴダ公園には女学生を含めた数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進した。道々「独立万歳」と叫ぶデモには、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。以降、キリスト教などの朝鮮人宗教指導者たちにより、朝鮮半島全体に運動が広がり、これに対し朝鮮総督府は、警察軍隊による武力鎮圧をおこなった[11]

運動の担い手と形態

運動の担い手はキリスト教、天道教、仏教などの宗教指導者であり、中学生(旧制)を勧誘し、運動の拡大を目論んだ。また、日本に留学していた朝鮮人や上海で反日運動を展開していた朝鮮人たちも関与していた。3月は示威運動に留まっていたが、宗教指導者たちが一般人を扇動したこともあり、4月上旬には朝鮮全土に暴動として広がり、警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われる事態となった[12][13][要ページ番号][14][要非一次資料]。朝鮮憲兵隊の記録によれば、3月から4月だけで618か所で847回の騒擾が起こったとする[15]

日本の対応

日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化を行った。犠牲者数は朝鮮総督府の公式記録によれば106万人が参加して鎮圧過程で553人が死亡したと記録されている。当時上海亡命しており、伝聞の情報であると本文中に書かれている朴殷植の『韓国独立運動之血史』によれば、死者7,509名、負傷者1万5,849名、逮捕者4万6,303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るという。

こうした中、堤岩里事件が発生した。この事件は4月15日に堤岩里の暴動を鎮圧するため、暴動の指導者20余名を教会に集めて射殺して教会を焼き払った事件である。この事件は指揮官の有田中尉が、朝鮮軍司令官からの暴動鎮圧の訓示を自己の所信で土匪討伐と解して鎮圧したために発生したものであると主張、有田は軍令違反で軍法会議に処されたが「被告の行為は訓示命令を誤解したるに出でて正当に暴動鎮圧の任務に服したるものと言うを得ざるが故に有罪たることを免れざるが如きも、被告は任務遂行上必要の手段にして当然為すべきこととの確信を以てついに及びたるが故に被告の行為は要するにこれを犯意なきものとせざるべからず又これを以て過失による犯罪を構成したるものと認めるを得ざるのみならず他にかかる行為を罰すべき特別の規定存せざるを以て結局被告に対しては無罪の言渡しを為すべきものとす」として無罪の判決を受けた[16]

また、懲役3年の有罪判決を受けて京城の西大門刑務所で獄死した女性独立運動家の柳寛順は、後に大韓民国で「独立烈士」として顕彰され、韓国ではフランスの国民的英雄ジャンヌ・ダルクになぞらえ「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれて尊敬を集めている。

運動の終息

朝鮮総督府当局による武力による鎮圧の結果、運動は次第に終息へと向かっていった[注 4]。司法的には以下のように決着がつけられた。逮捕・送検された被疑者は12,668名、このうち3,789名が不起訴により釈放、6,417名が起訴され、残り1,151名は調査中とある(1919年5月8日時点)。1919年(大正8年)5月20日時点で一審判決が完了した被告人は4,026名。このうち有罪判決を受けたのは3,967名。死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。3年以上の懲役は80名[17]

きっかけをつくった宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている。下級審で3年以上の比較的重い刑を宣告された者でも、最終的には高等法院(最高裁判所)において、保安法及び出版法などの比較的軽い構成要件のみの適用により、刑期も大幅に短縮された。高等法院で確定した刑期も、1920年(大正9年)の大赦令によりさらに半減されている。

一方、司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命し、彼らの国内における独立運動は挫折した[注 5]。その後の朝鮮半島地域は日本の統治に服し、1945年(昭和20年)の日本敗戦に至るまで大規模な運動は起こらなかった。

犠牲者数

この運動に伴う検挙者数・死傷者数に関しては今なお論争がある。朴殷植は事件発生当時上海に亡命しており、死傷者数は伝聞によるものであると本書中で断っているが、韓国の教科書や研究者にはこの犠牲者数を参照しているものが多い。一方、当時の朝鮮総督府の記録「朝鮮騒擾事件道別統計表」(3月1日-4月11日)によると357名が死亡し、負傷者は約802名とされている。ただこの集計は日本から増派された軍が配置され本格的な鎮圧(弾圧)が始まる前のものであること、「内外に対し極めて軽微なる問題となす」べきと総督府側自身がいうように、その発表された数は意図的に少なく抑えられているとする研究者もいる。

その他の記録でも検挙者数・死傷者数について食い違いがある。例えば、和田春樹・石坂浩一編『岩波小辞典 現代韓国・朝鮮』(岩波書店、2002年)では「朝鮮総督府の武力弾圧で約7,500人が死亡、4万6,000人が検挙された」とされている(106頁)。いずれにせよ、独立を唱える大規模な示威行動が朝鮮半島において展開され、その過程で暴徒と化した群集を朝鮮総督府が武力によって鎮圧(弾圧)する際、死傷者が出たことは確かである。

当時の反響

日本

発生当時の新聞の論調は「新聞各紙は各地暴動の状況益々悪化しつつありて近く討伐を令せられるべき旨を報じた」[18]とあり、三一運動を暴動とみなしていたが、一部には運動に同情を寄せる識者もいた。例えば、民本主義を標榜し、大正デモクラシーの主導者となった吉野作造は『中央公論』などに朝鮮総督府の失政を糾弾し、朝鮮の人々に政治的自由を与え、同化政策を放棄せよとの主張を発表した。また孫文との交友で知られる宮崎滔天は、運動を「見上げたる行動」と評価し、朝鮮の人々の自由と権利を尊重し、いずれは独立を承認すべきと述べている。石橋湛山柳宗悦なども運動への理解を表明した。

当時の朝鮮軍司令官であり鎮圧に当たった宇都宮太郎は、「無理に強行したる併合」と、その後の日本人による有形無形の差別が暴動の要因であると日記に記している[19]

こうした言論の影響を受け、1926年には、総督府とも親密な副島道正による「朝鮮自治論」が唱えられた。対米関係を念頭に置きながら、一貫して朝鮮民族の参政権賦与を唱える副島の主張は政策として採用されることはなかった[20]

世界

鎮圧の過程において多数の死傷者が発生し、その際の暴力性や人権侵害の事例が外国人宣教師外交官などを通じて国際社会に知られるようになり、日本の植民地統治に対する批判的世論が形成された。こうした動きは三・一運動が日本当局の強硬な対応によって終息した後も影響を及ぼし、当時第一次世界大戦後に国際的地位を高めていた日本に対して、その統治方式を問題視する声が一部で提起された。さらに、イギリスの外交官であるウィリアム・M・ロイズも軍隊の動員や文化抑圧政策について批判的に言及した[21]

影響と意義

朝鮮史の歴史学者宮田節子は「三・一運動は、独立という目的こそ達成できなかったが、大きな影響と意義をもった運動であった。一部の者だけが決起するのではなく、多くの民衆の参加したことは民族解放運動の画期をなした」としている[22]

日本及び朝鮮総督府の武断統治を改めさせ、文化政治に変わったとされる[23]。たとえば、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった。朝鮮人による国外での独立運動が活発化する契機となったことや、国内での合法的民族運動を展開する道が開けることになったことは、三・一運動の大きな成果といえる。ただそれは日本当局による皇民化政策のより一層の推進を促す結果となったのも事実である。三・一運動後、国内の組織的抵抗が日本側の弾圧によってほとんど不可能になった1922年(大正11年)までの間に、民族主義者にも動揺が現れ「漸進主義」と「急進主義」の分化が見られるようになった[24]。やがて愛国的青年層は「実力の養成」「民族精神の発揮」「団結の必要」などを叫んで「婉曲に排日思想を鼓吹」していたので、総督府側はこの気運を利用し、非難の方向をそらすために「文化運動」が唱えられた[25]

他にも、三・一運動で掲げられた要求を受け、総督武官制、軍隊統率権の廃止、地方制度の改正、結社の制限廃止などの法制度改革を一挙に進めていった。こうして、三・一運動を招いた反省から、武断的な統治を文化統治へ大きく改めた結果、以降は日本統治に対する抵抗といえる抵抗が全くみられなくなった[26]

また、労働運動農民運動女性運動・青年運動や衡平運動(朝鮮の部落解放運動)などの大衆運動はこの三・一運動がその出発点として本格的に展開されることになったとされる[27]

三・一運動の様子を描写したレリーフが現在の韓国首都であるソウル特別市(旧:京城府)のタプコル公園に設置されている。また、現在の大韓民国憲法の前文にも「我々大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と…」との記述がある。韓国政府の正統性の象徴として見る。

一方北朝鮮では否定的に評価されており、金日成は運動の指導部を「ブルジョア民族主義者」「崇米事大主義者」とみなし、ウィルソンの「民族自決論」についてもソ連の内部分裂を図った政略に過ぎず、そのようなものに期待したことが誤りであるとしている[28]

関連作品

映画
テレビドラマ

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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