鳴門カントリークラブ
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| 鳴門カントリークラブ Naruto Country Club | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 所在地 |
徳島県鳴門市瀬戸町北泊字北泊529-1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 開業 | 1964年(昭和39年)10月15日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 運営 | メンバーシップコース | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 設計 | 佐藤 儀一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 運営者 | 鳴門ゴルフ 株式会社 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 公式サイト | 鳴門カントリークラブ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1955年(昭和30年)代、徳島県内のゴルフ場は、1960年(昭和35年)5月3日開場した「徳島ゴルフ倶楽部」・吉野川コース(吉野川右岸の河川敷9ホール)の一カ所だけで、いつも大繁盛していた[1]。徳島ゴルフ倶楽部が開場した5年後、「本格派の18ホールが必要だ」という声だ高まり、担ぎ出されたのが柏原大五郎だった[1]。柏原は徳島ゴルフ倶楽部の経営母体である徳島観光ゴルフ株式会社の初代社長で、徳島商工会議所会頭である[1]。
最初は徳島ゴルフ倶楽部の拡張を検討したが、用地取得が出来なかった[1]。考えられた候補地は、鳴門市瀬戸町北泊地区の標高130メートルを頂上とする丘陵地の半島である[1]。北には瀬戸内海が、東には小鳴門海峡、西に日出湾と、三方が海のシーサイドコースである[1]。徳島ゴルフ倶楽部の設計を行った佐藤儀一に視察を依頼すると、「関西に比類なきコースができる」との評価だった[1]。
1963年(昭和38年)2月26日、建設用地の買収も順調に進み、徳島県や鳴門市も協力的で、新たなゴルフ場の建設に向けて経営母体「鳴門ゴルフ株式会社」を設立し、柏原大五郎が社長に就任した[1]。同年6月5日、造成工事が着工された[1]。コース設計は佐藤儀一、土木工事は日本国土開発株式会社、コース造成工事は安達建設がそれぞれ担当した[1]。
佐藤儀一は設計に関して、土量の移動も少なく済み、変化に富むコースになる、特に瀬戸内海国立公園内の渦潮、海岸地形との調和に拘ったと語った[1]。佐藤儀一にとっては、鳴門の渦潮こそが第一のモチーフだったようである[1]。その後、淡路島から鳴門大橋も開通している[1]。
所在地
〒771-0364 徳島県鳴門市瀬戸町北泊字北泊529-1
コース情報
クラブ情報
ギャラリー
交通アクセス
エピソード
- 瀬戸内海国立公園内とのことで、コース工事中はブルドーザーも分解して現地に搬入されたという。また、ブルドーザーは英国製で10台揃えたとのこと、当時としては珍しいことであった[5]。
