鴉鷺合戦物語
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一般的な書名は鴉鷺合戦物語。この変形に鴉鷺軍物語があり、物語を記とする鴉鷺合戦記・鴉鷺記、また鴉を烏とする烏鷺物語の名も伝えられる。鴉鷺問答と伝えるものも別名であろう。
作者
『弁疑書目録』では、『鴉鷺物語』(全三巻)を一条兼良の作品の一つとして数えている。また、前田家に伝わる梵舜筆写の『鷺記』にも「兼良作」と記されている。
さらに『大日本史料』文明13年4月2日条の引用文には、安政3年夏に四条隆生が「故禅閣御作鴉鷺問答二策、一日桃華左幕下公借用之貴命蒙之、仍新写藏書呈上之」という記述が見えることから、古くから本作は一条兼良の作と伝えられてきた。
市古貞次博士も、上記のような事実や兼良の深い教養を根拠に挙げている。さらに博士は、「カラス(黒)とサギ(白)の優劣を決着させる」という本作の構想が、『精進魚類物語』の成立後に思い至ったものではないかと推察している。
また、当時の五山詩僧である太白真玄の名前や、彼の詩集『鴉臭集』という名称からの連想もあったのではないかと想像し、兼良作説をかなり積極的に支持する態度を示している。
年代的にも矛盾がないため、一応、一条兼良の作品として扱うことができる。
成立
前田家蔵梵舜本の筆写は1594年(文禄3年)7月晦日であるが、その親本の奥書は1589年(天正17年)2月の日付になっており、天正ごろには存在し世に知られていたことは確認できる[4]。
さらに『海録』には、山崎美成本の奥書に1476年(文明8年)丙午卯月とある由が記され注目されるが、同年は丙申の年であり、誤写か作為か疑わしい日付である。もっとも、同18年が丙午の年に当たるので、「十」の字が誤脱した可能性もある。
一条兼良作とした場合の彼の活躍年代や、本書中に「先年精進魚類の合戦の時」とあることなどから、『精進魚類物語』より後、『秋の夜の長物語』以前と推定すべき徴証が見出される。したがって、1469年から1486年(文明年中)の成立と見るべき可能性が高く、市古博士は文明初年の作であろうと推定している。
内容
御伽草子の異類合戦物であり、この種の作品としては長編に属する。別項『精進魚類物語』と同系統の作品である。全編を11章に分け、烏鷺元年9月上旬に都で起こっ鴉軍と鷺軍の希代の合戦を描いている。
本来であれば文武両道が相応するはずのところ、世が末法の時代に下って文はいたずらに廃れ、武が妄りに振るう結果、空飛ぶ鳥や走る獣に至るまで闘争を専らとすることとなり、本事件が起こったとしている。
事の発端は、祇園の林の鳥・東市佐林真玄が、中鴨の森の鷺・山城守津守正素の美しい娘に執心したことにある。双方が味方を集めて大合戦に及ぶ一部始終を詳しく語るもので、応仁の乱を激しく批判する意図から生まれた作品と見受けられる節がある。
「それ烏鳥林にさはくこゑ、すなはち広長舌なり、鷺鶿汀にたつ色、あに清浄身にあらすや」に始まる和歌・管弦・郢曲のことを第1章とし、第8章までが両陣営での味方の参集と軍議を描く部分である。第9章以下が9月6日と26日の合戦の描写で、最後に真玄・正素ともに仏道に帰依する結末を記している。その上で、「凡鴉鷺闘諍無蹤跡たりといへとも、随一世上の体をあひ観するに、いつれか是実なる、自他の所行を思へは、ともに又あやまれり、或はおこり或はひかみて涯分にまよへり、何そ真玄か嗚呼にことならん、仍鳥道の跡なきことをしるして、人世のあやまりある事をしるすのみ」と執筆の趣旨を述べて結びとしている。
儒教・仏教的な立場が明瞭に示されており、和歌を中心として古典の知識を応用し、兵法を説き、あるいは勘状、あるいは願書、あるいは牒状・返状、あるいは落書、あるいは諷誦文と、種々の文体や文章を掲げるなど、啓蒙的であり往来物的である。それとともに、戦記物に等しい修羅場の描写も加えられており、単なる無味乾燥な文章には終わっていない。正素の鷺阿弥陀仏が、真玄の鳥阿弥陀仏に対し、似非禅の非を説いて念仏を唱えるよう勧めるくだりは、当時に多い宗論の形式であり、作者の立場を暗示している。
また、総じて堅い調子ながらも諧謔を交え、「何かな々々と思へとも、口近なる物とて鼻ならてはあらはこそ4腹中けしからす透徹て」と飢えた様子を述べるなどの描写が所々に見えるのは、異類物の手法によく見られるものである。
各章のあらすじ
一、和歌、管絃、郢曲の事
烏の真玄は、鷺の正素の娘に懸想する。娘は才色兼備で名高い。娘の乳母は、和歌の起源や効能、管絃や郢曲の歴史と奥義を娘に説き、それらが単なる遊びではなく仏道に通じる深遠なものであると教え諭す。物語の導入として、文芸の徳と登場人物の背景が語られる。
二、七夕因位、真玄仮粧文、文使打擲事
真玄は七夕の烏鵲の契りを例に引き、千鳥を介して娘に艶書を送るが、正素は身分違いとして一蹴する。諦めきれない真玄が再度使いを出すと、正素は激怒して使いを捕らえて折檻し、真玄の容姿や卑しい素行を散々に罵倒して追い返す。これが合戦の直接的な原因となる。
三、山烏太郎述懐、面々評定烏羽玉事
侮辱された真玄は即時攻撃を叫ぶが、田舎武者の山烏太郎が慎重論を唱える。軽薄な京烏が太郎を嘲笑するが、太郎は風流の道を説き返して一座を感心させる。軍議の中、夜討ちの提案と共に「烏羽玉」の語源に関する長広舌が展開され、議論は脱線気味となる。
四、山烏太郎意見、黒白毀讃状、両方廻文事
太郎の進言で味方を募ることに。和睦の試みも失敗し、真玄と正素は互いに「黒」と「白」の優劣を競う激烈な誹謗中傷の書状を送り合う。交渉決裂により、双方は諸国の鳥類に檄文を飛ばし、烏側と鷺側それぞれの陣営に類縁の鳥たちが集結し始める。
五、両方与力領状勢揃、木梟自称、両方官位姓名到着の事
鷺側には水鳥、烏側には山野の鳥が参集する。烏側の木梟は、自身の異形を卑下する周囲に対し、その霊力と武勇を誇る口上を述べる。両軍において着到状の確認が行われ、多様な鳥たちが古歌や特徴にちなんだ官位や家柄を名乗って勢揃いし、決戦の体制が整う。
六、住吉願書、後見烏悪日発向、教訓城角要事
劣勢の正素は住吉明神に願文を捧げ、神助を祈る。一方、真玄は陰陽道の凶日であるとの諌めを無視して出陣を決める。鷺軍は中鴨に堅固な城郭と要害を構え、堀や逆茂木を設けて待ち受ける。地形を利用した防御策と、無謀な攻撃側の対比が描かれる。
七、正素師行着甲冑次第、八陣事
正素は軍勢に対し、個人の手柄より集団戦法を重視するよう下知する。初陣の嫡子七郎如雪に対し、鎧の着用の作法や「八陣」の法、弓矢の故実など、武家の有職故実を事細かに伝授し、由緒ある名刀「鵜丸」を授けて心構えを説く。
八、母衣次第、正素嫡子折檻、鵠越後守上洛事
正素は母衣の故実を語り、死を覚悟していない息子を叱責して「貞心」の重要性を説く。一方、鵠越後守は北国から上洛する道中で無常観漂う和歌を詠み、戦死を覚悟して遺髪を僧に託すなど、悲壮な決意で陣に加わる。
九、師手分、九月六日合戦、鵄追善、雀懸梓事
九月六日、合戦の火蓋が切られる。正素父子の奮戦や夜襲の失敗により烏軍は敗走。鵄の戦死を受け、荘厳な追善法会が営まれる。また、戦死した雀の妻子が梓巫女を招いて口寄せを行うと、亡霊が現れて修羅道の苦しみと妻子への未練を語り、涙を誘う。
十、鵙燕落書、生田森烏衛門尉打死、高野山仏法僧牒状并返牒事
捕虜となった燕の釈放を巡り、鵙と燕の間で諷刺に富んだ落書の応酬がある。生田森の烏衛門尉は敗戦を恥じて入水自殺する。真玄は高野山の仏法僧に援軍を乞うが、仏法僧は殺生を戒め、無常の理を説いてこれを拒絶する。
十一、鶏禅法、九月廿六日合戦、鴉鷺発心事
鶏漏刻博士が禅の功徳を説いて奮戦するが、神仏の加護を受けた鷺軍に烏軍は壊滅。敗れた真玄は高野山で出家し、勝った正素も無常を感じて遁世する。かつての敵同士は仏道で和解するが、念仏と禅の優劣で口論となる。最後は共に往生を遂げ、鴉鷺一味の境地に至る。