文政9年(1826年)4月10日、山城国(現・京都府)に生まれる。名は光長 [1]。
天保4年(1833年)、非蔵人見習として出仕した。以後、地下官人として朝廷に奉職する。嘉永7年(1854年)4月6日、内裏東南の清和院御所宮殿から出火し多くが焼失した。5月28日、御所方の御造営御用掛が初めて参集した際、この内裏造営御用掛の役人を務めた中の一人として記録が残る。
安政5年(1858年)、日米修好通商条約などの条約勅許に反対し、有志とともに上書を行った。万延元年(1860)には和宮御縁組御用掛を務める。
文久3年(1863年)、攘夷派と目され参朝停止となった。非蔵人出身として学習院に勤仕し、諸浪士との談判を専らとした人物と伝えられる。
王政復古後の慶応3年(1867年)、三職御用掛に任じられ、翌慶応4年(1868年)1月18日には三岡三郎(由利公正)・小原鉄心とともに参与兼会計事務判事となった。同年5月には権判官事を兼ねた。また、岩倉具視の命により、皇政復古の勅制等の公文を浄書した者の一人であった。
明治5年(1872年)頃、権大録となる。太政官会計局では、甲斐九郎・岡田準介らとともに太政官札の製造管理に従事した。その後、宮内中録などを歴任した。
明治27年(1894年)5月21日に従六位に叙された[9]。
晩年、英照皇太后崩御後に、同皇太后が生前用いていた蚕卵紙および飼蚕器具一切を拝領した。これを用いて熱心に養蚕を行い、良好な成果を得た繭を両陛下に叡覧に供し、両陛下が旧時を追懐されたと伝えられる。