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常照寺 (京都市)

京都市北区にある寺院 From Wikipedia, the free encyclopedia

常照寺(じょうしょうじ)は、京都市北区鷹峯にある日蓮宗寺院山号は寂光山。本尊三宝尊。旧本山は身延山久遠寺[1]。親師法縁。紅葉の名所である。

所在地 京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町45
位置 北緯35度3分19.6秒 東経135度43分58.3秒
山号 寂光山
宗派 日蓮宗
概要 常照寺, 所在地 ...
常照寺
本堂
所在地 京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町45
位置 北緯35度3分19.6秒 東経135度43分58.3秒
山号 寂光山
宗派 日蓮宗
本尊 三宝尊
創建年 元和2年(1616年
開山 日乾
開基 本阿弥光瑳
別称 檀林の寺、吉野の寺
公式サイト 常照寺
法人番号 4130005002066 ウィキデータを編集
常照寺 (京都市)の位置(京都市市街内)
常照寺 (京都市)
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遺芳庵の吉野窓
帯塚

歴史

江戸時代芸術家である本阿弥光悦は、慶長年間(1596年 - 1615年)の初年には現在の光悦寺の地に別宅を構えていたが、元和元年(1615年)に徳川家康により付近一帯の土地を与えられた[1]。『本阿弥行状記』によれば、当時は「辻斬り追い剥ぎ」の出没する物騒な地であったという。

翌、元和2年(1616年)に光悦とその養子・光瑳により「法華の鎮所」がこの地に建立された[1]。これが当寺の起源である[2]

元和5年(1619年)になり本格的にこの地に移り住んだ光悦は、一族や様々な工芸の職人とその家族ら100人以上を集住させて一大芸術村、いわゆる光悦村を作り上げた。また自らの屋敷の近くに法華題目堂を建立している。その法華題目堂は光悦の死後に光悦寺となっている[3]

寛永4年(1627年)に光瑳の招きによって日蓮宗の中興の祖日乾が「法華の鎮所」に入ると、日乾はこれを正式に寺院として整備して寂光山常照寺と名付け、学寮である檀林(鷹峰檀林)を開いた[1]。後の最盛期には大小30余りの堂宇が建ち並び、学僧200余人が学んでいたと記録が残る。その頃には常照講寺とも呼ばれるようになっていた[1]

寛永5年(1628年)には日乾に帰依していた遊女の2代目吉野太夫により、山門(吉野門)が寄進されている[1]。また、当寺には2代目吉野太夫の墓もあることから、当寺は2代目吉野太夫ゆかりの寺院となっている。

1872年明治5年)に学制発布により鷹峰檀林が廃止されると[1]、往年の賑やかさは失われてしまった。

境内

  • 本堂 - 創建時は講堂であった。扁額「旃檀林」は日潮の筆。
  • 庫裏
  • 比翼塚 - 2代目吉野太夫と夫である豪商の灰屋紹益の供養塔。1971年昭和46年)に片岡仁左衛門により建立された。
  • 開山廟 - 日乾の墓。
  • 2代目吉野太夫の墓
  • 茶室「聚楽亭」
  • 茶室「遺芳庵」 - 2代目吉野太夫を偲んで夫の灰屋紹益が寄進したもの。壁にある大きな円窓は2代目吉野太夫が好んだことから吉野窓という。円の一番下の部分は切り取られており、完全な円にはならないように作られている。
  • 常富大菩薩堂 - 鎮守社。能勢妙見山で修行して常富大菩薩となった白狐を祀る。
  • 宝蔵
  • 鬼子母尊神堂
  • 妙法龍神堂
  • 帯塚 - 1969年(昭和44年)に伊豆蔵福治郎が発起人となって浄財を集め、建てられたもの。徳島県吉野川産の自然石でできており、日本唯一の帯を供養する塚である。また、鷹峰三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)を表している。
  • 庭園 - 中根金作による作庭。帯塚と共に造られた。
  • 山門(吉野門) - 寛永5年(1628年)に2代目吉野太夫によって寄進された朱塗りの山門[1]。また2代目吉野太夫は下京区蓮久寺にも朱塗りの山門を寄進している。

所在地

  • 京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町45

アクセス

周辺

脚注

参考文献

外部リンク

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