鼈甲家一家
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- 初代
明治3年、一見直吉は生まれた[1]。 明治30年ごろ、鼈甲家一家を興し、初代の親分となった[1]。一見直吉はもとは鼈甲細工師で、通称を鼈甲屋と呼ばれていたのを一家名にしたという[1]。
一見直吉は、生井一家貸元青木粂次郎の若い衆で、同じ青木の若い衆の平井兼吉、小林卯八とともに「浅草三羽烏」といわれ、千束町一丁目、二丁目と浅草公園を3人共有の縄張りとしていた[1]。
大正11年4月14日、浅草の料亭を出て人力車に乗っていた一見直吉は、中村直彦(人斬り直)ら4、5人の刺客が現れ、日本刀や槍で襲撃された[1]。一見直吉は槍の切っ先をまともに脾腹に受けてえぐられ、ドスや日本刀が続き、腹から腸が飛び出るほどの傷を負い、それを中へ押しこみながら応戦したが、力つきて倒れ、刺客たちはすばやく姿を消した[2]。一見直吉は大学病院に運ばれ、何人かの医者がかわるがわる傷を調べたが、手のほどこしようがなかった[2]。一見直吉は医者たちに「どうも御苦労さんでした……」と最期の言葉を言い、そのまま眠るように息をひきとった[2]。52歳没[1]。万年東一著『人斬り懺悔』によると、河合徳三郎が口をきいて出羽屋の跡目に横浜方の山本周三がなった。各親分がこれに従ったが、獄中にいた鼈甲屋・一見直吉は頑として首を縦にふらなかった[3]。浅草一帯に縄張りをもつ高橋金次郎、出羽屋・山本周三も殺る計画に参加し、兄弟分の立場で殺し屋中村直彦がそれを代表した[3]。河合徳三郎は中村直彦に「おい、助けるなよ」と命じたという[3]。弁護士から「教唆した人間の名を言ったら7年で済む」と言われた中村直彦は「全部自分一人で背負います」と懲役15年の刑を受け、市ヶ谷刑務所に服役した[3]。