天保11年10月(1840年)、龍岡資弦の長男として生まれる。通称は小十郎、三作。嘉永元年(1848年)、9歳にして都城領主島津氏の児小姓となり、大島流槍術師範・白尾国宝から四面の奥義を授けられた。
安政2年(1855年)5月、番頭座詰となり、翌3年には番頭役兼道橋奉行に進み、町奉行をも兼ねた。文久2年(1862年)5月、島津久静が兵を率いて上洛した際にはこれに従って謀議に参与し、献策を行った。
慶応2年(1866年)、長崎派遣を命じられて鉄砲を購入し、洋式訓練を学んで帰藩した。明治元年(1868年)正月には小隊長となり、細島に派遣されて諸藩の動静に備えた。奥羽出征の命を受けて8月に江戸へ入り、9月以降各地で転戦し、10月に東京へ凱旋した。
明治2年1月、都城に帰還して大隊長となり、家老職に進んだ。都城において兵制改革を行い、歩兵二大隊・砲兵一大隊を編成し、大隊長を投票によって選出する制度を導入した。この選挙において約300人の衆望を集めて当選しており、都城における投票制選挙の嚆矢とされる。
明治4年8月、朝廷が薩長土の兵を徴して親兵を組織すると、資峻もこれに加わり上京した。明治6年に陸軍省13等出仕となり、翌7年に砲兵少尉に任官。郷兵を率いて台湾における生蕃征討に参加した。
明治10年(1877年)の西南戦争では第四旅団に属し、のち第三旅団附となって都城・延岡・佐土原など各地で転戦し、軍功を挙げた。同年1月に中尉、明治17年には大尉に進級し、まもなく退職した。
明治26年(1893年)1月23日、病を得て東京で死去。享年54。遺骨は当初青山霊園に葬られたが、大正11年10月6日、都城に改葬された。